I wanna Keep A-Rockin'
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2001年07月04日(水) 何もしなかった日。(安泰ガバメンツ篇(上))

●OK、今日は安泰ガバメンツの話をしよう。
出会うまでの経緯については 7/2 の日記参照。

1990 年2月、当時の超人気番組「イカ天」に出演。
SHOW と Chris が、前のバンドで応募していたのが、ようやく出演依頼が来て、バンド結成2ヶ月での出演となった。

一応「完奏」したんだけど「キング」にはなれなかった。多分「できレース」だったんだろう。
審査委員長の萩原健太が「安泰ガバメンツも候補に上がったんですが …」と言っていたし、後日某雑誌で、当時ご健在だった竹中労氏が、「安泰ガバメンツがキングにならなかったのは、おかしい。」と批判していた。

でもそんな、イカ天出演の効果もなく、Live の動員はさっぱりだった。
40〜50人がいいとこ。2〜3人って事もあった。(笑)

でも俺達は Live House に出続けた。
屋根裏、アンティノック、LOFT、Club Que、SHELTER …。
赤字になっても、月4回とかね。今考えると、よく生活出来ていたなあと思うよ。

宣伝活動も必死だった。
都内の殆どすべての Live House にステッカーを貼りまくり、動員のあるバンドの Live でチラシを配ったり、対バンと仲良くなって、そいつらに来てもらったり …。
とにかく「演奏出来るところがあれば何処にでも出る」って感じで、ホコ天もやったし、アマチュアのコンテストにも出まくったし、本当に何でもやった。
しまいには、蒲田の場末のスナックで、Oldies の「ハコバン」までやったよ。
だから、当時の Live House Scene で、動員はないけど、知らない奴はいないっていう奇妙な存在だった。

レコード会社からは、2社から話しがあった。
1社目は、今はなきハミングバード。某コンテストで優勝したのがきっかけだった。
仮契約までして、Demo Tape を作ったりしたんだけど、ハミングバード自体に力がなく、結局「タイアップが付かないと売り出せない。」という理由で話しは流れた。

もう1社は SME (Sony Music Entertainment)。
X JAPAN のプロデューサーが偶然俺達の Live を観て、新人発掘部門に紹介したのがきっかけだった。
そこで担当になったディレクターが、これまた倉敷の某と同じ位、Rock について「熱い」奴で、随分頑張ってくれた。
最終的に、尾崎豊のプロデューサーだった奴(名前忘れた)が Live を観に来て、「(デビューさせても)いいけど、苦労するぞ。」という意味深な発言をしたんで、ディレクターもちょっとビビっちゃって、話しは尻すぼみになってしまった。

知名度があって、玄人受けがいい。動員も常に30〜40は確保出来るようになった。
あちこちの企画に呼ばれて、Live の誘いは後を断たなかった。

でも、肝心のメジャー・デビューの光が見えない。

そこで俺はメンバーにある提案をした。
1994 年の暮れの事だった。

つづく。

●今日の鈴木君。
神経科「中川クリニック」受診。
状況は相変わらずだと訴えると、「頭が働かないように思えるのは、実は体がまず働いていないのだ。それは「症状」だから治る。」という事で、寝る前の薬を替えて「テコ入れ」する事になった。

終わり。

BGM:Rod Stewart "Lead Vocalist"


鈴木 泰裕=国分寺の大森信和 |MAILHomePage

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