2009年02月10日(火) |
はい、まあ、その、なんだ、妄想だ |
春の嵐がやんだ頃、大きな船が港についた。
僕と鳴海さんは、各々片手に食べかけの焼き芋のかけらを持ちながら、それを見ていた。
それは、ついこの間戦った、あのヤマソガツよりも大きなくせに武骨さは無く、 黒い船体に真鍮の流麗なラインが金ぴかに光って、前方が丸く切り取られた白い客室は まるで大学の建物のようだと見たままライドウは思った。もともとロマンチックな 表現には長けていない。
「みたまえ!ライドウ君!!」
魅力的な貴婦人然とした美しい船体!ヴァイオリンのような女性的なカーブ! そのくせ1万屯もあるグラマーなんだぜ。 なあ船に乗ったことがあるか?俺はある!船は良いよ!すぐ撃沈されるけどな!
「はい。ほんとうに大きいですね!それにピカピカです!」 「ああピカピカだ!!」
ヨーロッパのどこかから来たという、巨大な客船を前に、 鳴海は気取った口調で子供みたいに饒舌だった。ライドウも自然と陽気な気持ちになる。
英国製の三つ揃えに帽子姿の鳴海は、こういう、西洋的なものの前に立つと、 中々サマになっていると思う。すっかり見とれているライドウの気持ちを知ってか知らずか、
『海に落ちるぞ』
とゴウトが冷ややかにのたまった。実はライドウはあまり泳ぎが得意では無い。 まして、海で泳いだことなど無いので、少しだけ後ずさった。 海に溺れて鳴海に助けられるなんて、そんな格好の悪いことができるもんか。
やれ何フィートあるとか、横浜の次は神戸に寄るぞとか、 料理は旨いがワインがこぼれるだとか、 ああ、でもこぼれにくいグラスに入っていたような気がするだとか、 鳴海の説明は終わらない。
そんな時、ライドウはいつも彼を眩しくかんじる。 山育ちで未熟者の自分からしたら、なんてこの人は色んなことを知っているんだろう! そして改めて、自分はこの人がこうして、自分だけに見せてくれる 生き生きした笑顔が大好きだと思い知らされる。 ゴウトにはその締まりのない顔はどうにかならんかと怒られるけれど、 こればっかりは仕方がないじゃないか。
船の全体が見渡せる少し離れた欄干に腕をもたせ掛けて、風に負けそうになっている もじゃもじゃの髪を押し込めた帽子を押さえながら、鳴海さんは船を見ていた。
鳴海から眼をそらして、ライドウも船を見た。
遠くで警戒のラッパの音が聞こえる。 洋食屋のコックの帽子のような形の大きなファンネルからは まだかすかに黒い煙が上がっている。
欄干から頭だけ出して下をのぞくと、渦と泡が眼の下をクルクルと回っていた。 鳴海がコーヒーに入れたミルクをかき混ぜる時みたいだと思った。 自分のコーヒーはいまだにキレイな渦模様を描けないままに白く濁ってしまうのだ。 こんな時まで鳴海さんか、と思うと、自分でも少々可笑しな気分になった。
恥ずかしくなったので、風が少し冷たくて、こんな日は外套がありがたいな、とか、 ゴウトは寒がるだろうか、欄干に顎を乗せて眼を伏せている鳴海さんがこのまま寝たらどうしよう。 などと考えて不埒な気持ちを紛らわせていたら、鳴海が口を開いた。
「昔のことはずいぶん忘れちまったけどさ」
船で出かけた色んな国のことはむしろ昔より今のほうがはっきり思い出せるんだ。
突然の事でライドウは一気に緊張した。 彼はいつでも世間知らずのライドウに知りたいだけ惜しげなく知識をくれたが、 自分の昔のことになると上手にはぐらかすし、それを追及して鳴海の辛いことを 無理矢理思い出させたり、困らせたりなんてことを、こんなに関係が進んだ今でも ライドウはできないでいたからだ。
ぎこちなく、無言で鳴海を促した。
「そりゃあたくさん色んなモンを見たよ」
曇った空に突き刺さりそうな寺院の塔に、夕暮れの河べりで聴いた悲しい音楽、 薔薇がいっぱい咲いた庭に立っていたら聴こえてくる、どこかのお嬢さんが弾いているピアノの音に、 息をするのを忘れてしまいそうな彫刻の橋に、まだ若いくせにじい様みたいな大時計。
美しかったよ。うん。 そうだな、事務所にある、ライドウがいつも埃払うのに苦労しているティーカップの 複雑で手のかかる模様みたいな、ああいう絢爛なもので街全体が出来ている。 普通の労働者が住むようなアパートの階段の手すりにまで、猫の手足のような丸い 飾りがついていて、石造りの何層もある巨大な建物がどういうわけか生き物みたいに キラキラしているんだ。
俺はね、そういう美しい街で
「人をたくさん殺したんだ。」
ライドウは何も言えずにじっと欄干に置かれた自分の手の甲を見ていた。 脈拍が上昇するのを感じる。 緊張はピークに達していたかもしれない。
鳴海の経歴は聞いているし、密偵なんて呼ばれる輩が何をもっと飯のタネにしているかなんてことも、 だいたい分かっているつもりだ。強いて言えば、自分がそんな事くらいで鳴海のことを軽蔑したり、 嫌いになったりすることは未来永劫ないのだと、いつでも理解してもらいたいと思っている。
鳴海は珍しく、本当に珍しいことに、いつものようにペラペラと話さず、 ゆっくりと言葉を選び始めた。
被弾した教会の懺悔室で オペラハウスに立ってる金色の女神さまの裏手で 異国につながる列車のコンパートメントの中で 王朝風なレストランのトイレで、厨房の皿がぶるかる音を聴きながら
緑色のビロードに、赤黒い血が染みていく。 背後で下水におっこちる水音は粘液みたいにこもっている 電燈に纏わりついていた蛾が余所に飛んでいく 頭を包んだ袋の口から赤いものが流れだしてくる。
暗い地下、強烈な悪臭、麻痺した感覚、
何年も偽っているうちに乱れ飛ぶ言語に頭が揺さぶられる。 俺は、いったい、どこの国の人間なのか。帰る場所はどこ。
外国に居るって言っても観光旅行ってわけじゃないからさ。 頭の中はろくでもねえ任務の事しかねえし、失敗したら殺されるし? 自分が狙ってる敵さんにばれたらこっちが拷問の揚句犬の餌だ。 毎日ビクビクしてたよ。
俺は本当に臆病者なんだ。
そうやって何年も、ドブネズミみたいにこそこそ身分隠してさ。 殺されたくねえから毒物飲んで耐性作ってるうちに五感がどんどん衰えて。 頭もおかしくなってくるから、だんだん善悪の判断なんか狂ってきちまって。 盗みやら人殺しやら。正義のためになんだってやった。自分が今眠って いるのか、それとも起きているのか、もう区別がつかなかった。
人格がすっかり壊れちまって、指令書通りに動くのがやっとで。 せっかく美しい船に乗って美しい街に行ったのに、キレイな女とも会えたのに。 何一つ、何一つオマエに話せるような良いことなんてしなかったよライドウ、俺は。
5年ほどそうやって、ようやくお呼びが掛かって、港から船に乗り込んだ。 自分に与えられた客室で腰をおろした。汽笛の音がうるさくて、掌を耳に押し付けて、 やっと帰れる。でももう、何も信じられなくなってて。呼び戻されたのが疑わしくて。
何で呼び戻されたんだろう。 もしかしたら、帰ったら殺されんのかな?って思って。
案の定、俺が腰かけてすぐにドアーが開いた。知らない男がいた。
出港も待たずにその場で撃たれたんだ。
俺を撃った奴は、新米だったはずだ。新しく俺のポストを継いだんだろう。 一発で仕留めてくれなかったから、即死もさせてもらえなかった。
立ち上がる気にもなれない。 この5年間、何のためにこんなに必死に生きていたんだ。
情けなくて情けなくて、日本を離れて初めて涙が止まらなくなった。
そうしている内に船が出る。腹の傷はジクジクと痛んで濡れたけど、体が痛みに 鈍感になっていて、意識だけが遠のいていく。ホールから流れてきた音楽が 耳に入ってきて初めて音楽を美しいな、と思ったんだ。
そうなると急に自分が暗躍していた忌々しいこの異国の景色が懐かしくなってきて、 そうなるといよいよ涙は止まらなかった。死にたくねえな、と思ったり、 そうかと思えばここで死にてえな、と交互に思って、ぼやけた視界にドアーが入ると、 そこに居たのは死神じゃあなくてカラスの一味だった。
「無事に助け出されて晴れて元陸軍将校にして幽霊、鳴海昌平探偵の誕生ってわけだ」
もしかしたら、俺を撃った男は、陸軍とヤタガラスの二重スパイで、どちらの命令も まっとうするために予め外して俺を撃ったのかもしれないと思ったけど、もう、 何でもいいや、と思って。全て投げたかったんだ。
なあ、ライドウ。 永遠にと讃えられた美しい街でも、目を懲らしてみりゃ俺みたいな汚いもんがはびこっている。 美しいものと醜いものが、別々に完全にテリトリーを分かち合って存在しているなんてこと、 ありえないと思っていたよ。
ライドウに逢うまで。
「ライドウは心も体もキレイなもんさ。この歳でそんな奴に出会えるなんて、生きてて良かったよ」
そういうと、鳴海の伏した瞼に睫毛が揺れた。 腕の隙間からのぞく口元は見たことが無いくらい優しく微笑んでいて、 ライドウは目が離せなかった。
心臓が狂いそうに鳴っている。 抱きしめたい。抱きしめて、ずっと好きだと。 衝動的に抱きしめそうになる腕を、欄干に縫い付けられたまま固まった指が食い止める。 咄嗟に苦しい、と思って、嗚呼そうか嬉しすぎるからだと気がついた。
早く触れたくて、気ばかり急いて、血が上った首筋が熱くて、早く、照れてないで目を開けて、 見ただけで「嬉しい」があふれている自分を見て欲しいと、そればかり思う。
辛いことは思い出してもらいたくはないけれど、 陸軍からヤタガラスに上司が変わっただけで、僕を監視していることを、 僕が葛葉を貶めるような無能なら、迷わず僕を末梢しなくてはならないことを 忘れるような人ではないけれど。
あなたがたくさんの罪を犯して、体も心もボロボロに捻くれさせて疑心暗鬼に囚われてなお、 僕に汚れの欠点も無いと信じて、そしてそれを欲しいと思ってくださるなら、 それはとても幸せなことだと思う。どうか永遠に欲しがって欲しいと思う。
本当の自分は、 鳴海さんには事務所から一歩も出ないで欲しいと思っている程度には嫉妬深いし心配性だし ゴウトからは粘着質とか暗いとか言われるし、鳴海さんみたいに人を楽な気持ちにさせてあげたりも できない。キレイというより、浅いんだろうなと気づいているけれど。
「帰ろっか!ライドウ。聞き込みしようにも人がいねえよ。長いこと居座っちまった」
「そうですね。・・・あのっ、鳴海さっんっ」
「変なとこでドモるなよ、どうしたライドウ」
「鳴海さん、の、方が、自分にはとってもキレイに見えます!」
鳴海さんはポカンと口を開けて、珍しく顔を赤くしながら、 「あぁ」とか「そうか」とか言ったままクルリと背を向けて歩き出してしまった。
小さな声で「まずったな。全部しゃべっちまった」と言うのが聞こえて、 ライドウは嬉しくてたまらない。
確信している。 鳴海さんは、やむなき事情で僕を手にかけなければならなくなった時に、 きっと涙を流してくれるだろう。そんな倒錯的な妄想はライドウを 少しずつ歪めながら、優しく甘く、彼を満たしてしまうのだった。
にのらです。 よもや↑を読んでくださる方もおられまいと思いますが、 一気にスクロールしてここを読んでおられる方が98%ですが、
知りすぎて疑心暗鬼の鳴海と知らなさ過ぎて妄信的に鳴海に ついていくライドウはお似合いやなぁ。
で、鳴海はひそかに「ライドウが無能であると判断したら殺せ」とか 命令されていたら萌える!!!らめぇ!!殺しちゃらめぇぇ!
しかもライドウも薄々それには気づいてて、そんな事させねえぞとか 思ってたら萌える!でも好きなのね!そうなのねライドウ!!
どういうわけか、いまだにライドウが好きでたまりません。 鳴海がもうアラビアのロレンス状態で、もうなんか世界中を 知りつくしてて、陸軍でありながら飛行艇の操縦とかも できて欲しい。できなくてはならない。
さて、録画したメイちゃんの執事を見て寝ます。
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