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■ これが剣の世界の大冒険!?
友人に薦められ、サーラの冒険の最新刊を読んでみた。実は、今までもさらっと走り読みした程度で、まともに読んだことがなかったのだが…確かに、面白い(「ケイオスランド」に比べればなおさらだ!)。 そして、読み終わって感じたこと。 「これでまた、ソードワールドも妖魔夜行と同じ運命をたどるか」 「サーラの冒険」は、山本弘の小説家としての優れた力量と同時に…ソードワールドというTRPGの抱える最大の問題点を浮き彫りにしている。
元々ソードワールドは水野良と山本弘、清松みゆきが世界設定やシステムデザインを分担し、協力して作り上げた世界である。この三人のデザイナーには担当はあるが上下はなく、同格のデザイナーである。 つまり、この三人のベクトルが違う方を向けば、フォーセリア世界の方向性はバラバラになってしまうのだ。そして…実際に三人のフォーセリアに対するスタンスは、明らかにまったく異なっている。 山本弘と水野良の現在のスタンスは簡単だ。二人はもはや、フォーセリアをTRPGの舞台として捉えていない。二人にとって、フォーセリアは単なる「小説の舞台」でしかない。 昔、私は山本弘が書いたリプレイに登場する「善良な環境で育てられた善良なモンスター」や、彼の小説に登場する「ファンタジー世界でギターを持って自由を歌うロッカー」が大嫌いだった。 「モンスターを倒すことに良心の呵責を覚えていたら冒険者などできるわけがないではないか?」 「産業革命もルネッサンスもない世界でロックやパンクが有り得るのか?」 だが、それらの疑問は、山本の書いた他の小説を読んで氷解した。要するに、山本弘が書いているのは、フォーセリアを舞台にした「異種との遭遇」を描く物語…つまり、SF小説だったのだ。 今回も例外ではない。象徴的なのが今作のヒロイン「善良なファラリス信者」のデルだ。作者もあとがきでこんなことを書いている。 「デルが登場してから、善良なファラリス信者をプレイする人が増えたと聞きました」 作者自身は軽い気持ちで書いたのかもしれない。しかし、これこそソードワールドの最大の矛盾点、乖離するデザイン思想そのものだ。
考えてみてほしい。あなたがもしソードワールドのGMで、プレイヤーが「善良なファラリス信者」をプレイしたいと言い出したらどうするか? 私なら却下する。それは、山本がその後で述べるように「本巻を読めばわかるとおり、善良なファラリス信者とは極めて不安定な存在」だからではない。 システムデザイナーの清松なら却下するだろう。私にはそう断言できるからだ。ゲームのQ&Aでデザイナー自らが「血液にはピュリフィケーションはかかりません」とわざわざ断りを入れるゲームで、そんなはっちゃけたキャラクターはとても創れない。 デルだけではない。先程例示した「ソードワールドアドベンチャー」ははっちゃけたキャラクターのオンパレードだ。 メイジスタッフを武器に、棒術を自在に操るソーサラー・ファイター。 全身に戦乙女の刺青を入れた蛮族の女戦士。 全部清松マスターなら却下だろう。何しろ生命力で最低値を振ったファイターというだけでダメ出しするマスターなのだから! 山本が「善良なファラリス信者とは極めて不安定な存在」だからプレイに向かないというのは、一種の予防線だ。つまり、善良なファラリス信者ではプレイしないでくれ、という意味だ(ちなみにもし「サーラの冒険」がTRPGのシナリオだったら、サーラよりデルのハンドアウトを渡された方がよほどプレイしやすいと思う)。 簡単に言えばこういうことだ。 “この「サーラの冒険」は小説です。だから、プレイヤーの皆さんは真似しないでくださいね”
余談だが、トーキョーNOVAに“カウンターグロウ”というリプレイがある(FEARばかり引きあいに出して申し訳ない)。このうち一人のキャストはこんな設定だ。 「人が撃てないカブトワリ(狙撃手)」 また、別のリプレイにこんなのもいる。 「自分は表舞台にほとんど現れず、全部部下にやらせるエグゼクティブ」 「魔剣」 みんなはっちゃけた設定のキャストだが、もちろんルーラーは設定を却下していないし、ちゃんとセッションも運営している。
さて、話を戻そう。善良なファラリス信者という存在には、プレイヤー側だけではなく、GM側の問題も隠れている。それは「プレイヤーの(キャラクターの、ではない)モチベーションとカタルシス」だ。 善良なファラリス信者が存在する、ということは、邪悪なファラリス信者が善良な存在になる可能性があるということ…つまり、ファラリス信者を「説得」できる可能性がある、ということである。それも改宗させずことなく、だ。 しかし、ゲーム中にファラリス信者を説得して善良な人物にすることは不可能に近い。なぜなら「そのためのルールが用意されていない」からだ。 ソードワールドTRPGのシステムは(他の多くのTRPGと同様)、戦闘することでカタルシスを得るタイプのゲームである。必然、GMはシナリオの中核に戦闘を用意することになる。シナリオの中核に「説得」を据えることができないのだ。 「そんなことはない、山本弘は“善良なモンスター”のシナリオで、ファリス神官の説得を核にしてるじゃないか」 という意見もあるかもしれない。 しかし、山本弘以外のGMによるリプレイでは“善良なファラリス神官”も“善良なモンスター”も登場したことはないし、シナリオが戦闘によらず平和的に解決するシーンも描かれたことはない。 むしろ「モンスターは敵だから邪悪である。よって理由なく殺してもいい」という描写の方が多い。 有名なバブリー・アドベンチャラーズのリプレイにこんなシーンがある。PCたちが、敵のダークエルフを殺すことなく捕虜にし、情報を聞き出すシーン。一通り情報を聞き出した後、当然ダークエルフをどうするか、という話になる。 PCの一人がこう言う。「アノス(神聖王国)の官憲に引き渡そう」と。それが、即ダークエルフの処刑を意味すると承知の上で。しかも、尋問などによってではなく、ダークエルフの「協力」で情報を得たにも関わらず、である(このシーンのPCたちの邪悪っぷりはなかなかのものだ)。 もちろん、ダークエルフを殺すことは問題ない。ただ、それは「ダークエルフは生来邪悪な種族であり、それ自体が倒す理由となりうる」場合においては、だ。このバブリーズの行動を山本リプレイのケッチャやユズが見たら、いったい何と言うだろう? 実は、山本弘のリプレイにおけるPCたちの行動には、ルール上のバックボーンがまったくない。サーラの冒険におけるデルも同じである。 「善良なファラリス信者」の存在を認めると、GMはPCの行動の動機づけに「敵がファラリス信者であるから」という以外の動機が必要になってしまい、逆にPCは登場したファラリス信者を倒しづらくなってしまう(善良なファラリス信者であるかどうかを見極める必要があるからだ)。 もちろん、GMとプレイヤーに自信があるなら、善良なファラリス信者を登場させ、説得して改心させるというプレイングを試みてもいいのだろう。 だが、経験から言わせてもらうと、戦闘をクライマックスにすることを想定したシステムで戦闘をしないことは、プレイヤーとGMの双方に相当なストレスを強いる。 相手を説得するに至るプロセス…小説でドラマとして成立させるのは難しくない。小説というメディアならではの心理描写が大きな役割を果たせるからだ。しかし、客観的な描写をするのが主であるTRPGのGMが、同席するプレイヤー全員のコンセンサスを得ながら「説得」シーンを演出するのは茨の道だ。山本のリプレイは気心の知れた者同士だから成り立っていたのだということを忘れるべきではない。 しかも、その遊び方は一切ルールブックではサジェスチョンされていないのだから! この問題を…矛盾を簡単に解決する方法は一つだ。 “この「サーラの冒険」は小説です。だから、GMの皆さんは真似しないでくださいね” さっきと同じ結論である。
私はTRPG原理主義者なので、どうしてもこう考えてしまう。TRPGの関連商品は、TRPGの魅力を紹介し、TRPGをプレイしたいと思わせるものでなければ、と。 どんなに優れた小説であっても「どうですか、すごい設定でしょう? でもTRPGでは使わないでくださいね!」と言われたのでは、TRPGとしての魅力とはまったく無関係でゲームをプレイしようという気にもならない。 もちろん、小説としての完成度の高さとはまったく別の話だ。いや、むしろこういうべきか。 「小説としての完成度が高ければ高いほど、TRPG小説としての価値は低くなる」と。 妖魔夜行の「戦慄のレクイエム」がそうであったように、「サーラの冒険」もまた、山本弘がフォーセリアをTRPGの背景世界としてではなく、小説の舞台と考えている何よりの証なのではないだろうか。 そして、このベクトルの違い、デザイン思想の乖離こそが、ソードワールドの展開を今のようにしてしまった最大の原因ではないかと、私には思える。
ちなみに…今回は触れなかったが、水野良はもっとヒドい。でも、それはまた、別の機会に。
2005年07月01日(金)
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