■映画を即教育教材に?/新説崩壊■
本日、大学へ出向き、研究会出席と図書借り出し。
研究会は、本学で毎月開催される言語絡みの研究会。ここ最近は、見事にバイトとバッティングしてしまい、出席できていなかったが、今回は、バイトもなく、出席を果たすことが出来た。毎回、2つのネタが話されるのだが、今日は、2人の講師がどちらも学外からのゲストで、他大学からの聴講者も多数見られた。阪大の院生なんかも居たが、その名を聞くだけで、おどおどしてしまうのはナゼかしら…。
1つ目のネタは、「コーパスを活用した口語英語教育研究 〜映画セリフデータベースの構築とその英語教育への応用〜」というもの。つまりはですね、「パソコンと映画のセリフを使って英語を勉強しましょ」ってコトです。そうすることで、状況に応じた、ブツブツと途切れない(=まとまった意味を持つ)発話を学習できるようになるってワケです。そんなテーマで、小難しい話が90分続きました。
ここで、筆者が思ったのは、映画のセリフが、教材としてどこまで価値を持ち得るのか、というコト。発表者の先生は、「映画のセリフは、発話場面に密着してしていて、音声と映像が確認できるから、教育的利用価値はある」としているが、本当にそうだろうか。例えば、『ダイ・ハード』のように、ある人間が、常に銃をぶっ放して、爆発に遭いまくるなんていう状況で発話されるセリフに、教育的価値があるかは疑わしい。
そもそも、映画は、大抵の場合、通常の暮らしとはかけ離れた場面が設定されているものであって、それを即教育に応用というのは、ちょっと性急な考えではなかろうか、と思う今日この頃。教材として使う前に、映画の選択、そして、場面の分類と一般化が大事になってくるんでしょうかね。そうでないと、どんな場面で、どんな発話が行われるかが分からんしねぇ。
お次のネタは、「英語における省略表現」。英語には、省略が OK なものと、OKそうで実は NG というものがある。で、そこで何かの規制が働いているのではないか、ということで、90分のお話を聞いた。その中で、「境界性の概念」というものを提示し、それを用いれば省略ができるかどうかが決まるのではないかと唱えておられたのだが、話が進むに連れ「自信がないんですが…」を連発。最終的には、我が教官 Y 氏によって、「そりゃ、成り立ちませんよね」と、その新説は崩されてしまいました。オモロイ説だったのに…。
今日は、出て正解の研究会。
注:呪いをかけられました。
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