Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2020年05月07日(木) |
わたしの身体など取るに足らない、(と記憶して)、 |
わたしの身体など取るに足らない、(と記憶して)、平安時代の縁側に坐する僧侶からト書きにように意識だけが浮上する、といったイメージ、
に、漂い、今日は過ごす、9日午前3時39分、いま、
Third Issue / Trio Sowari 2018
iTunes に入ってるー、うれしー、だれこの音源おれにくれたのはー、
つねづね、わたしは音楽というのは謎なのだ、謎に魅入られる行為なのだ、と仮止めしてきた、
まさにこの、身体から離脱するカンジ、(と、こう書いた時点でわたしは読み替えしてしまっている、が)、
運転手控室で、そうよハロウィンのキーパーオブザセブンキーズパート2だよなーと30も年下の若者と、魂は連れ立つ幼稚園児になれてしまうの、も、
一目惚れした名前失念ちゃんに46分選曲カセットテープのB面にはこれを入れようと夢み心地昭和56年になってしまうの、も、
福島恵一:FaceBook
演奏はメロディやリズムの変奏といった線的な展開を離れ、濃度や分布、色彩や温度、質感、粘度等に集中していく。演奏空間のうちに各自楽器を携えた演奏者の身体が点在しており、そこから音が放たれ空間に広がっていくという従来の枠組みはもはやない。エレクトロ・アコースティックなざわめきの一様な広がりがまずあり、それを傾け、あるいはゆっくりとかき混ぜていく動きがある。ゼラチン溶液を入れた容器の底の部分を、片方の端だけ温めていくと、温度/密度の傾斜が生じることにより不思議な乱流や渦が生まれていく‥‥そんな様が思い浮かぶ。 ラドゥ・マルファッティ(Radu Malufatti)が「ポスト・ウェーベルネスク」と揶揄した、空白恐怖症的な瞬時のコール・アンド・レスポンス、すなわち誰かのパルスに他の演奏者が反射的に応じるという、フリー・インプロヴィゼーションの見慣れた光景はない。なぜなら空白などもともとないのだから。だから、そうした「典型」からの離脱は、決してヴァンデルヴァイザー楽派的な教条主義によって達成されているのではない。 むしろそれは熱帯雨林のフィールドレコーディングに似ている。尽きることなく豊かに湧き出す細部により、刻一刻織り上げられていく、見通すことのできない濃密な(だが、こうした思考の文脈において、濃密さと希薄さの違いとは何なのだろう)音響連続体。そこでもやはり空間の中に音源が点在しているのではなく、空間そのものが鳴り響いている。相互の浸透により、隙間なく満たされ水没した世界。熱帯雨林の只中まで足を伸ばさずとも、夜の林で樹々の葉擦れに、草っ原で虫の声に、田んぼの畦道で蛙の大合唱に包まれれば、私の皮膚など容易く透過され、輪郭は溶解し。遍くざわめきで満たされる。蝉の声は岩ではなく、私の身体にこそ沁み入ってくる。「自然と同化し、その一部となる」というと何だか解脱の境地に達したような気になるが、何のことはない、私の身体の輪郭など全く取るに足らないというだけのことにほかなるまい。 「聴く」というとどうしても、こちら側に耳の視点があり、しかるべき距離を置いてあちら側に対象となる音源があり、このあらかじめ設定されたパースペクティヴの下、私の知覚を通じて世界が姿を現す‥‥と考えがちだが、こうした視覚型モデルがなべて「聴くこと」の前提にあるわけではなかろう。「見る」時、私は世界の端に位置しているが、「聴く」時、私は世界の中心にいると言ったのは誰だっただろうか。
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