Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2019年07月13日(土) |
「前衛失速、電子音、波動化 「今」の音楽の起点を一九七〇年代に探す」 |
六本木ヒルズの初日に行く、電車で行くのははじめて、中目黒で日比谷線乗り換え、クルマではいつもの場所、でかくてたまげる、
小石川図書館に寄って、錦糸町行きバスに「寿三丁目」がある、ドキドキのる、鳶牛肉衛門4、浅草寺で大吉、純喫茶マウンテン、白玉クリームあんみつ、
リュウポンとガスト、だんだん会話ができるようになっている、柳楽優弥に向かうのか、
やくざに弟子入りする、やりとりの符丁をおそわっている、各種の支払いはカードを使うという、引き落としはオレの口座なのか、そんなのやってらんない、そもそも転職する気ないから、発言を封じられたままに山の上のお寺に葬儀へ参列する流れに押されてゆく、親分がお寺に入ってゆく、頭を下げて見送っている、ふもとから大きな黒塗りのベンツが減速せずに大音量をたてて寺の門を壊して入場してゆく、男たちの怒声が飛び交いはじめる、このスキに逃げることにする、ニュースの画面になりスズメバチの大群に襲われている光景、救急車が次々と到着している、そして全員即死のナレーションが流れる、オレだけが生き残った安堵感で目が覚める、しょうもない夢、
小雨の中クリエイトへ牛乳とコーヒーを買いにチャリで出て、帰り道ふらふらとこぐ、おおきなくしゃみを威勢よくしたら、ゆっくりとバランスを崩して、ガタ、ガタ、ヘタリ、と転げてしまう、まったく痛みのない見事なスローモーションだと自慢したいくらいなんだが、ジジイになるとはこういうことかと息をする、
芸術について思うのは、作者が由来や思いを語るものではなく、打たれた者があれこれ饒舌になってしまうものだということだ、美は黙らせると小林秀雄がいうのと同じだ、なんだわかってんのか、こりゃまた失礼しましただな、
ドトールの田原町駅前店で、『われわれはどんな「世界」を生きているのか−来るべき人文学のために』ナカニシヤ出版2019の岡田暁生「前衛失速、電子音、波動化 「今」の音楽の起点を一九七〇年代に探す」という論文を読む、
一、西側戦後前衛の失速と一九七〇年代 戦後前衛の黄金時代/シュトックハウゼンのグル化とブーレーズの転進/マイルス・デイヴィスのスランプと「ジャズの死」 二、「分かり易さ」というタブーの解除 メロディー・リズム・ハーモニー・スペクタクルの解除/既存様式を参照してもかまわない 三、「音楽」は「サウンド」へ溶解する 協和音だけで出来ている音楽という実験/電子音の魅惑 四、「なれ!」から「ありのまま」へ 「音を使って作曲する」VS「まず音を作る」/「音」の彼方へ、波動主義へ/癒し音楽の系譜と音楽のサプリ化
成り立っている論文である、俯瞰としてなるほどと思う、ミソもクソも一緒になっている、容認できない、
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