Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2017年07月27日(木) |
耳の枠はずし 「ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー |
アーロンパークスのトリオ作品のプロデュースは前2作のサンチョンと変わって、アイヒャーがとっている。 ロスコーミッチェル2CDライブは、なんとスティーブレイクが登板していたのだった、久しぶりすぎるう、 アイヒャー引退後のECMはサンチョンとスティーブレイクの双頭体制になるだろうか、なってほしー、
福島恵一さんからタダマス26のレビューをいただきました、
耳の枠はずし 「ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"」 ■
”『tactile sounds』について、「今度のピアノ、初めて聴いたんだけど、すごく良いですよ」と益子博之が興奮気味に語っていたのを覚えている。”
う、その回、行きそびれている、その発言把握していない、 しかも、今回はピアニストが参加している作品が多くなっている現象もおれは見逃している、 リン・ヘイテツさんにそれぞれのピアニストに対する感想をきけばよかったー、
”おそらくあらかじめ記された「楽譜」があるのだろうが、それは単なる指示書に過ぎない。どのように作戦を遂行し、成果を挙げるかは、一瞬ごとの状況判断、すなわち「即興」に委ねられる。ここでTabornやSoreyたちが開いてみせる世界の豊かさに比べ、あらかじめ用意された「書かれたもの」の構造は、それほど精緻でも複雑でもあるまい。逆に言えば、作曲は自己完結しておらず、演奏の豊かさを決して保証してはくれない。それが「ゲンダイオンガク」としての完成度の低さであると言うのなら、それはそうなのだろう。だが、それがいったいどうしたと言うのか。「たとえ楽譜を見て演奏しているとしても、(所謂「現代音楽」の演奏とは)時間の過ごし方、役割の果たし方が違う」という多田雅範の指摘は、まったくその通りだと思う。”
ううう、脂汗をかいて唸るばかりだ、多田の発言を肯定してくれているが、じつにわたしがここのところをしっかり押さえていないのだった、いつかのアルヴィンルシエ『アムステルダムメモリースペース』に打たれていた事情そのものではないか、あの時も福島さんに教示いただいていたのに!学習しないバカなおれを恥じるばかり、
”Craig TabornとIkue Moriのデュオと聞かされると、「ジャンル違い」というよりも、むしろ、隙間なくみっちりと石垣を積み上げる前者の「建築性」と、ソーダの泡が弾け、クリームが散乱し、色とりどりのチョコレート・スプレーが噴出する後者の女子会的「非建築性」の極端な対比”
うっとりとするような見事な観察、福島恵一節だ、ジャンルという語への安易さへの警句も響いている、
ジャンルという語は安直なのだと思う、コミュニケーションが成立する語彙や文法、イントネーションが異なる言語という捉えのほうが実態に即している、
「演奏家が自分のヴォイスを持つ」という言い方はまた別、
橋爪亮督グループの進化、
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