Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2016年02月04日(木) |
(〈兆候〉の哲学 / 宇野邦一 青土社 2016) |
お師匠さまからCD買いなさいと1万円のAmazonギフトをいただき、テレビブロスの表紙にもなった会田誠画伯が描く岡村靖幸11年ぶりの新譜『幸福』をカートに入れられる幸福、スーパーに寄ってふんぱつして半額になった高級白子を味噌汁にして食べて横になったら21時から翌朝7時半まで寝てしまう、
進学塾で高校一年生を5人サポートするチューターのアルバイトに今日から勤務させられることになっている。時給は1250円だという。ちょっと待ってくれ、おれはもうこんな複雑な微分方程式はさっぱりわからないし添削指導などできるわけがない、それにその月給だと家賃も払えない、おれはまた仕事を辞めてしまったのか、いや、まだ退職願も辞職の宣言もしていないのではないか、知らんぷりして職場デスクに座ればいいじゃないか。困り果てて目が醒めて、も、なお、枕から頭を上げて、仕事どうしようかなあ、とぼーっとしてしまう。
なんでそんな焦る夢をみるの。不吉な予知夢なの?
『たとえばひとりの建築家が、子供の頃遊んだ風景の中の墓地や廃屋、森や海辺、家や教会や学校や小劇場を思い出し、単に自伝を語っているのではなく、その空間に立ち戻り、そこから浮上してくる〈兆候〉に注意をとめながら、それらのあいだで、ほとんど実現不可能な奇妙な建築を構想するようになる。遠い部屋の記憶は、ある幸福の観念に結びつき、彼にとって建築の目標は「幸福」となる。しかし部屋の記憶はあくまでも建築の内部で生きられた記憶であり、そのような幸福の記憶は、決して建築によってつくられるわけではない。内部に介入することはできないからである。それでもこの建築家は、幸福の建築を構想し続け、ドローイングを描き続けるだろう。それは〈兆候〉のデッサンでしかないようなドローイングだが、〈兆候〉に執着することによって、彼は建築の外部と内部の障壁を超えるのである。』(〈兆候〉の哲学 / 宇野邦一 青土社 2016)
おたおめ。もっちゃんさ、むかし工場二階のもっちゃん部屋の押し入れで二人で聴いたタラのテーマとか、あれはレイモンドルフェーブル楽団のイージーリスニング音源だったのかなあ、あれが体験としての耳の根源だと思う54歳でございます。 マーヤン、それは多分ポール・モーリアじゃなかろうか?親父が羽振りの良い時、いきなりビクターのステレオを購入してきた。何枚かのレコードが付いてきて、その中にポール・モーリアのアルバムがあったなぁ。隅田川の花火大会の音源とかオープンリールに入ってたよね。懐かしいね、砂川時代。
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