Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2015年10月31日(土) |
CDレビューする・1 |
ぬばたまの。
今日(11/1)はゴルフ場の下見で茨城県水戸まで、開通したばかりの圏央道や北関東道を駆けめぐってきた、夕方に初台で特訓中のJKきよりんからお迎えのリクエストを受信するが、ごめんよー
タダマス19への福島恵一さんレビューをいただいて■、 ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』(インスクリプト)の告知■を読み、すぐにアマゾンでポチしてしまった(駅前のあゆみブックスで購入すべきだった!)、このドキドキしたカンジ。 不思議と何か新しい時代が到来しつつあるような、気持ちになっている。 個人的な、ですね、きっと、あくまで、というか。こういう契機の到来というのは、まったくコントロールできないもので、わたし個人における耳の身体性の更新、何の本を読んだ?テレビを観た?うまい物食べた?誰かとくすっと笑った?、なぜそうなったのかわからない、
CDレビュー、する。
『Studies to be Quiet / Daysuke Takaoka』 2015 private 50 limited
フィーレコ作品のレビューとはどのようなものか、鳴る音を記述することは反則ではないのか、などと思考している。虫の音、川のせせらぎ、と言ってみたところで。端的に言って、空間を聴いているのである。豊かな自然音に接近したマイクロフォンが拾った、耳の鼓膜ではトレースできない/ゲシュタルトできない形状のサウンド。これが、その場所の空間の拡がりを必然的に含んでおり。高岡大祐が楽器を使用しているということは知っている、が、自然音との対比で人為的な音であることはわかっていても、その正体はわからない、というよりも、楽器や奏法がどんなものであるかは問題になっていない。耳が衝かれるのは、その音の正しさというか、独自の魅力というか、ヴォイスといったものか、なんとも形容できないが、魅惑的な謎によってだ。響きのコンビネーション、そのタイミング。インプロ、即興という「演奏すること」「反応すること」「図形的な瞬間美を獲得すること」といった軸足には重きは置かずに、獰猛な耳の悦楽にのみ殉じた、響きのコンビネーション、そのタイミング。(ははっ、いまコピペを使いました)。耳を通過したのちに(事後的に)、これはこういう演奏行為をしているのではないかという判断は起動することはする。奏者はマイクを動かしているだけかな?カーテンのレールを動かしているだけかな?というトラックもある。数分のトラックが、すっと途切れて、次々と、それはまるでビートルズのポップソングのいでたちになって、とは語弊のほうが大きい。この途切れさせ方がまた、ペットサウンズのトラックの必要な短さ、みたいに感じられる。
当初、帰路の中央環状線山手トンネルをグイングイン左右にカーブしながら加速するクラウンで聴いており、重力Gによって揺れる身体、と、録音が覆われる風圧の音響との特異な体験にドラッギーな快楽を得ていた。部屋のスピーカーで鳴らしてみること。ヘッドホンで耳にすること。この3形態がまたそれぞれに異なる官能に至る。
おそらく制作者は、こんな傑作を作っているという気分ではいないのではないか。鈴の音色も、金属の打音も、動物の鳴き声も、その音像のありよう(マイクとの距離、空間把握の差異)は、動かし難く魅力的である。なぜ、そう言えるのか、根拠を言い当てることが困難でいる。
『外の人 vol.3 / Masafumi Ezaki, Daysuke Takaoka』
若者が生活している気分がする。京王線沿線の夜遅く、かな。住宅地の近くにあるトンネルで吹いているのだろうか。上記『Studies to be Quiet』とは、耳の触覚のありようが異なるので、別人だろう、と思っていたが、同じ高岡大祐のクレジット、あれれ?それはそれで興味深いなあ。こちらは、環境に訪れるサウンドに対して、良い意味で手放して放置している感覚がある。高岡大祐の営為の存在を、場所とのコントラストを愉しむことができる。
のどかで、クスッと微笑ませる柔らかさがある。笑わせようと意図したり、逸脱して異化させようと企んだり、のどかさを演出していることとも無縁でいる。ポストモダンなる語彙が有意味であった世代、古典が古典として居た時代の息苦しさがない。息苦しさと書いてしまったのは、54さいのワタシの経年耳の自覚でもある。
19さいのころを体験してしまっているのだろうか。いや、それは間違い、いまの、なし、なし。
祖父の仕事場に、手回しの金属ヤスリ機があった。クルクルと回した。いろんな材料を接触させて、音色や長さやタイミングを味わっていた。穴の開いた50円玉を祖父が戻ってきたらもらえるようにと思いながら。
マイクロフォンが至近距離の音まで拾ってしまうので、実際に人間がそこで体験しているサウンド風景とは、遠い。リアルでありながら、遠い。そこにノスタルジーの距離を適用させてしまうのは、誤った聴取である。
このCDに関わっているふたりの制作者の精神はとてもキュート。ワタシの耳の中で、彼らは遊び、ワタシは彼らと同化してひとときの時間を過ごしてしまう。
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