Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2015年02月01日(日) |
阿佐ヶ谷の「白線」へ 松籟夜話2 |
昨日は稲岡親分と、青梅レコード倉庫へ出かけた。倉庫というより、蔵。井上道義のデビュー盤のアナログを探しに。2時間ほどで退散。蔵の中は寒くて寒くて。青梅街道は渋滞していて、休日に多摩地区はー。
阿佐ヶ谷の「白線」へ。音響、環境、即興。
David Toop のクォーツ・レーベルの音源を中心に。 ■
フィーレコ音源が位相を変化させるたびに、視える(と感じられる)風景がふわっと変わる。
ニューギニアの笛の演奏が見事に呼吸しインプロヴァイズしていたのに唖然とする。インプロヴァイズと呼称するのは、そういう認識の概念がこちらにあるからであって、クラシックの演奏会でも稀に、日本の伝統音楽の達人の卓抜した演奏に、時に、連れてゆかれる体験に通ずるところのもの。30年以上も前にメロディーかアドリブかというジャズ論争があったけれど、若いぼくたちは「同じじゃん」と即座にアウフヘーベンしていたものだ。
David Toop のオブスキュア盤のトラックは・・・。子どもの頃、何十メートルも高い天窓に覆われた空間で、そこは巨大な銭湯、炭鉱夫や東洋高圧の労働者たちが芋洗いになって入っていた銭湯、の、お湯の流れが反響していて人々が使うカランがランダムに時に妙にリズミックになって鳴り響いていた、それをじっと聴いて湯船に入っていた時間を思い起こしていた。
ソヴィエトフランスという盤にも惹かれた。
高岡大祐というドネダと演奏意識を共有している奏者を知る。
プログラム最後の2曲だけが、「説明できる」作品に聴こえた。スティルライフの最新作が、「フィーレコ/演奏」の分けがたい、耳の鳥肌が立ち続けるような「謎」に満ちている、気配の察知に翻弄され続けるような捉えがたい傑作なのだと、ちゃんとレビューできていないでいる作品なのに対して、2曲はずいぶん平たいものだった。耳を歓ばせる作為が、想定的である、というか。
一緒に帰ったひろこさんも同じ手ごたえだったよう。豊穣な沈黙と、聴く者を黙らせる沈黙、とか言っていたかな。
聴く者の無意識にまで届いてゆくような作品と、聴こえている要素が並んでいるだけの作品の対比が、明確に感じられたという点で、その2曲は他のトラックの大きさを照らしていたとも言える。
福島さんや津田さんの言葉に、ぼくたちの前の席に座っている原田兄さんがうんうんうなずいている、同時にぼくたちもうなずいていて、ヘッドバンギングごっこしているみたいに楽しい。聴取の事態をうまく言葉にできないままに、感動ばかりしているぼくたちに、発見の輪郭を与えてくれる二人のコメントはじつに正しく触発的であって、こういう言い方は適切ではないかもしれないが、心地良い。言葉によって、より連れ出されているという体験。
それにしても。なぜ、このように耳をすまして、これらの音源が気持ちよいのか。
思えば全身が耳になってしまう時間に支配されていた。会場に面した路上から聴こえる子どもの声や通行人の歩調も、揺るぎない音楽となって耳に到来する。かかっている音源の時空、この場所に届いている現在の音響、その交感、イベントに集まった十数名の耳たち、耳たちから根をはる無意識。
いわゆる演奏された音楽を聴くと、そこに奏者の意図なり感情なりを聴いてしまう。そこを、うざったい、という構えはある。フィーレコを聴いて、これは何々の音だと一時も早く判断して安心してしまいたい、という構えはある。奏者が居るのか居ないのかわからない事態、何の音なのかまったくわからない事態には、髪の毛が逆立つように集中して耳のフォーカスの触覚が彷徨うところはある。
でもそれだけでは心地良いという体験の理由には、うまくつながらない。生理的に不快であっても不思議ではない。
なぜ、これらの音源が気持ちよいのか、と、つらつらと思いながら帰路。フィーレコ的音源には薄っぺらだったり意図が見え見えだったりラジオドラマみたいのがある一方で、ごおおおっと耳が連れてゆかれるような、謎の深淵に身動きできないものがあり、後者を「傑作だ」と判断している。その判定基準を言語化できていない。思えば初めてのフィーレコ体験だったマイケル・ピサロの「ジュライ・マウンテン」はじつに映像的で牧歌的なものだったが、それはそれで青春のように輝いているから許す(許す?笑)。
それにしても、福島さんも津田さんも別々に歩みながらずっと以前からミシェル・ドネダを把握していたというエピソードは啓示的だ。
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