Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEX|past|will
2014年03月13日(木) |
「赤岩和美」先生のお名前 |
サントリーホール溜池山王に向かう南北線飯田橋の駅のホームにいるとブリティッシュロックやプログレを聴きたい気持ちにさせられるのはどうしてだろう、これからクラシックを聴きに行くのに何の気のせいだろうとかれこれ5年間、謎が解けた。
「赤岩和美」先生のお名前がここにおられたのである。
それに反応できるこないだ月光茶房でお知り合いになった音楽マニアの方とラダメス師は同じ苗字なのであった、お二人からほぼ同時刻にメールがきて、クラシックのピアノについての見識がわたしを含めて共有するものだったから、意識がクラクラしてしまった。
ジャレット=マカルスキのバッハヴァイオリンとピアノのための6つのソナタを、相対化する耳になってしまったのだわ、ちょっとだけ寂しい。
橋本京子というすごいピアニストのCD『4大B+ブルーメンフェルトによる舞曲集』を入手する。このスタインウェイの表現ならラダメス師も許容されるのではないだろうか。
奈良のお水取りに高速道路ダッシュ往復する予定で平日3連休にしていたのだが、寒くてやめてしまった。Jazz Tokyoの入稿が詰まっていたし、バテてもいた。
ダンスとの共演による高橋悠治ゴルトベルク、紀尾井のシフ、いいなあみんな。
ラダメス師から作曲家柴田南雄先生のフレーズ 『われわれは、音楽の演奏によって、ただ感覚や情諸を楽しみ、複雑なスコアの音符や記号を正確に再現するのにいくら感心しても、じつは始まらない。それはたんなる素材である。それにとどまらず、われわれはマーラーならマーラーの交響曲の構造を通じて、それが生み出された時代が、生き生きとした姿でわれわれの生活の中に再構築されるのを体験したいと望む。むろん、われわれはその時代を現実に知っているわけではなく、小説や劇や映像や論文などによって、各自がばらばらなイメージを抱いているだけであるが、十九世紀末のヨーロッパ文化の文脈とこの演奏との間にはどのような関わりがあるのか、ということを興味の対象にせざるを得ない。つまり、関心の薄い、たんに今日的な感覚で複雑なスコアを見事に再現した演奏であるかは、わたくしにとって、ほとんど面白い演奏かつまらない演奏かの分かれ目になる。」
|