Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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この写真は、堀内さんがJazz Tokyoへレビューした公演のものだそうです。 ぼくはFace Bookの記事からタップして転載したもの。
彩耳記35■
東京混声合唱団 第209回 定期演奏会 「創立50周年記念定期演奏会 No.9」 <未来への“祈り”> @ 東京文化会館小ホール 2007年2月26日(月) 19:00
「『レクイエム』、第三楽章の最後の音が、静かに、消えて行った。指揮者、山田和樹は動かない。静寂。ふつうならば、曲が終わって、せめて10秒。だが、そのまま、微動だにしない。30秒。まだ動かない。舞台上も客席も、しわぶきひとつない沈黙。凍りついた時間が続く。演奏者たちの顔が、菩薩のように、表情を超えた表情のまま、指揮者を見ている。その顔を、観客が見ている。私は、その時、三善の『レクイエム』が呼びかけ、呼びかけられた、夥しい戦争の死者たち、そしてまた、今この時も世界各地で行なわれている戦争で、無残な死を生きねばならない人々の魂を思い、瞬時に、黙祷した。そして、しばらくして眼を開けると、まだ指揮者は動かないままだ。これは、一体、なんだろう。その時、思った。この凄惨な、血だらけの音楽の演奏は、新しい生命を産み出す行為、出産でもあったのだ、と。この産声は、無から始まり、無へと帰る。私たちは、沈黙の叫びを、ことほぐ者だ。ああ、医者が必要だ。誰か、この指揮者をすぐに看護しなければ。彼は今、自分の産み出した沈黙の子供にのみ込まれて動けなくなっているのだ……。60秒経って、指揮者の首ががくんと前に垂れた。さざなみのように小さく拍手が起こり、ゆるやかにクレッシェンドしていった。客席に振り返った指揮者が、救いを求めるように席を見渡し、誰かを捜している。そこには、病をおして会場にかけつけた作曲者三善晃がいた。折れそうな細い体躯を杖に預けて、客席の椅子から立ち上がる。ステージを降りて歩み寄る指揮者。そして、そのまま、三善の手をとると、深く、その手に頭を垂れて、動かない、そのまま全く動けない。客席の聴衆も、舞台上の演奏者たちも、その指揮者の姿が、自分自身の心を写したものであると思ったのではなかろうか……。神話の一シーンのようであり、一夜明けた今でも、私自身、いまだ夢のような思いにとらわれている。」
堀内さんは『レクイエム』の復刻という重要な仕事も果たしています。 ■
09年レコード・アカデミー賞を受けた『交響四部作』も堀内さんの制作でした。
音楽サイトmusicircusには、三善晃関連の記事がまとめてあります。 ■
おー、自分で書いていたことをすっかり忘れているが、断じて正しいではないか。 「日本の現代音楽という呼称はおかしい。日本の音楽でいい。年末には黛の涅槃交響曲を、夏には三善のレクイエムを、秋には武満のノヴェンバーステップスを。松村の阿知女(あちめ)を、小山薫のヴァイオリン協奏曲を、矢代のピアノ協奏曲を、西村朗はこれから勉強します、あと高野山の声明と、言わんとするところは、毎年聴けるプロジェクトがほしい。全国各地で公演する。オール会員制、年会費7まん2せんえん分割払いカード可、にして財政的安定を保つ。国民的な行事にしてしまうのだ。」
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