Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2013年07月24日(水) |
ジョン・ブッチャー来日公演2013のチラシにおののく |
ジョン・ブッチャー来日公演2013 のチラシにおののく。 ■
ジョン・ブッチャーのハイパー・モダンなサウンド言語は、サクソフォンという楽器の物質性に根ざしたものであり、彼以上にこれを極めた者はいない。 行くべき“彼方”はないのかもしれない。 (スティーブ・レイク Steve Lake)
うえっ!スティーブ・レイクはまだジョン・ブッチャーのCDを制作していないのに、そこまで言う。 「彼以上に?」・・・冗談言っちゃあいけないなあ、ミシェル・ドネダがいるだろ! ねー、福島さん・・・
うおっ、福島さんがチラシにテキストを寄せていた。
<ジョン・ブッチャー:ありとあらゆるサウンド可能性の顕在化> 管の隅々まで緊張をみなぎらせて空間を揺さぶり、あるいは倍音や分割振動、各部の共鳴を操って拡張された音色スペクトルの結晶格子を織り上げるかと思えば、近接マイクにより微細な振動を顕微鏡的に拡大し、フィードバックの眼に見えない回路に耳を澄ます。ジョン・ブッチャーはこうして、サキソフォンが潜在的に有しているありとあらゆるサウンドの可能性を自在に引き出してみせる。その演奏は刻々と移り変わる流動の相の下にあり、舞台上に現れている身体の輪郭は仮初めのものに過ぎない。かつて観たライヴでは、手に持った石を気ままに打ち合わせながらサウンドの視界から姿をかき消してしまう鈴木昭男をとらえようと、センサーの感度を研ぎ澄ますあまり、階段の軋みにすら反応していたっけ。 (福島恵一)
こ、この鈴木昭男とジョン・ブッチャーの光景は、この記事で触れられていた。
耳の枠はずし:マリオ・ジャコメッリ写真展「The Black Is Waiting for the White」のことなど ■
『鈴木昭男とのデュオで、ジョン・ブッチャーが図らずも階段の軋み(それは演奏者が立てたものではない)と「共演」してしまった時、彼の音は階段の軋みを演奏の場へと迎え入れ、その一部として浮かび上がらせたと言うことができる。そこに居合わせた私は、この階段の軋みの浮上により、ブッチャーが空間の隅々にまで張り巡らしている眼に見えない鋭敏な感覚網に気づかされた。と同時に、そのネットワークのセンシビリティに部分的に同調/共振することにより、耳の視点がずらされ、空間に潜むざわめきが視界に浮かび上がるのを目撃した。チラシの紹介文では、ブッチャーの超生真面目ぶり(超・超絶技巧と同じくらいスゴイ。何たってもともと原子物理学者だし)をスナップしたユーモラスなエピソードとして紹介しているが、実はそれは恐るべき画期的事態でもあったのだ。』(福島慶一)
インプロのライブ空間にあって、聴くのは楽器の音であると思っていたわたしは、ミシェル・ドネダを聴いて、演奏者の耳のアンテナの伸びというか変容というか空気まで聴いていいのだと、意識の空が開けたような、唖然とした、拡がった歓びに震えた記憶がある。自分の耳の歴史に断層を感じたというべきか(だからか、ガイクルとか春の旅以降は“いわゆるインプロ”を聴くことから遠ざかったのかもしれないし、財政的な理由だけどね)。
インプロヴァイザーからは「いや、昔からやっていたよー」と言われるかもしれないと思っていたのでしたが、このようなダイナミックな、聴取体験の新次元と言っていいような事態がやはりインプロに起こっていたのだ。インプロという語が更新されてたのだ。
「耳の視点」
おれがドネダを聴いた98年頃に大友良英がいーぐるレクチャーで「耳のフォーカス能力」と言っていたことにひざをたたいたのだっけ。
福島さんの耳の枠はずしレクチャーが示していた、インプロヴァイザーが当初から問題化していた響きの志向と通低する。
スティーブ・レイクと福島恵一がチラシの表裏というのはかっこいいなー
おれもAERA誌でパパブッシュとゴルビーのツーショットの次ページにおれのかっこいい顔が載ってたこともあるぞ
かなみん3さいの造型アートがテレヴィジョン誌の表4全面カラー掲載というのもあるぞ
かんけーないか
8月4日(日)のグッケンハイム邸に行きたいなーと思うが、この日は夏休みで姪のまりえちゃんたちとニセコのロッジにお泊りの予定なのだった。わたしは一緒にニセコのロッジに行った3さいのまりえちゃんに「にせころっしー」と呼称され名付けられたのであった6年前?かな。
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