Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2013年05月04日(土) 「ジャズとの隔たり “far beyond”――ECMとの出会い、そして今」




われらが音楽サイト musicircus ミュージサーカスで、
Jazz Tokyo に掲載された堀内宏公名義のテキストをいくつか復刻した。・・・名義、って?、あれ、ご存知ない方もおられるかもしれませんが、何を隠そう多田雅範と堀内宏公とニセコロッシとちるミスは同一人物なのである。多田雅範と堀内宏公を同時に目撃されたことはないのである。

何を書いているんだ。

それにしても、「ジャズとの隔たり “far beyond”――ECMとの出会い、そして今」

この恐るべき14才!その前の民音音楽資料館で閉館までヘッドホンでねばっていたのは中学1年生なのか?

「この無重力感覚はどこからもたらされるのか。第一には、おそらくモードと反復の構成的配置から来たものだろう(後に、これがマイルス・デイヴィスとテオ・マセロの試みに起因するものだと知る)。第二には、近代西洋音楽の核心である機能和声とは異なる、別種のトーナル・センターよる重力の繋留が指摘できる(後に、これがレニー・トリスターノの試みやジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセンプトに起因するものだと知る)。そして第三番目として、音組織をブロック状に自在に組み合わせ全体を作り出すモジュール的な発想を基盤としていることがある(後に、これが世界各地の民族音楽に起因するものだと知る)。この独特な浮遊感を支えるのが、西洋クラシック音楽の濃厚なエキスである。」

トーナル・センターよる重力の繋留!

わかる。

そうか、こう記述すればよいことだったのか。

おれは子どもの頃バスの最後部座席で後方を眺めながら、浮遊し、揺られながら、新しい景色はどんどん後方へ消えてゆく、ぼくは運ばれてゆく、ぼくはどうして生きているのだろう、ぼくは運ばれてゆく行く末まで生き続けるのだきっと、まぶしい太陽に照らされることもあるだろう、吹雪に凍えることもあるだろう、だが、それらはすべて過ぎ行く風景の一段面であって、わたしはどこにもいないのである、


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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