Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2012年09月30日(日) |
重要記事「多田雅範の文章世界−疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる」 |
24日 ■にアップした「タガララジオ31」のテキスト。
来月のタダマス7の告知を主旨として、音楽サイトJazz Tokyoに入稿したテキストをアップしようとしたら、このブログは最大原稿用紙20枚までという制限にひっかかりアップできない、ので、曲の表記を全部取ってもだめ、2曲ばかり削除して、なんとか全体がアップ表記されていた。
このテキストに対して福島恵一さんがレビューくださった。
「多田雅範の文章世界−疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させるMasanori Tada's Composition World−Views Running in Full Career Remind Me Essntial Randomness of Life」■
おおおお。おれの名前が太ゴチックでタイトルになってるう。英語のサブタイトルもかっこええ。
パソコンで読んでて恥ずかしくて思わず画面を閉じて喫煙所まで走っていったり、ミニットメイドを買ってきて飲みながらまた読んでドキドキしてたり、挙動不審おやじでした。
夢のロジック、夢の感覚と言われると、そんな感じであることがわかる。いつもタガララジオを書くときは、パソコンに向かって何を書き出すか、自分の記述を自分で楽しんでいる楽しさがある。音楽のことなのに日常生活の記述が入り込むスタイルは、18のときから編集カセットテープ交換をしてライナーノーツを書きつけてたのと同じ。キチンと音楽のこと書ききれないので雑談するのだ。
この夏のお墓参りの集合写真、40年前の親族写真が、この日記から転載されて(もちろん事前の打診と許諾のやりとりはいたしました)、他者(福島さん)の読みと手によって、ぼくの目の前に現れるとき、この写真の人たち(この世にいないひとも多数)がぼく(のテキスト)に会いにきてくれたような、猛烈に癒されるような感慨を持った。
こんな感じは、うまく説明できない。
親族の肖像とは、個人にとって神話の世界との通路みたいな特別なものがあるような気がする。
6月には 「勢いあまって踏み外す−多田雅範の耳の旅路がとらえた風景−Stepping Out by TOO Much Full Force−Soundscapes from Masanori TADA's Listening Travelogue−」 ■ というレビューをいただいていたばかり。 わたしの日記での反応>■ 「お父ちゃんはほんとはモーツァルトなんだよ」に、今読んで笑ってしまた。かはは。
「多田の夢には性的な隠喩/象徴があからさまに欠けている」「あるいは(無意識的な)事後の検閲によるものかもしれない。たぶんそうなのだろう。」という重要な指摘がある。
充分にエロジジイなんだが、実績的には。わはは。
赤い縞柄の中央バスが飛んでゆく夢 ■
男のうしろを乾き物を担当する女性が横切った夢 ■
砂川中央市場でミュージシャンをみるゆめ ■
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