Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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タダマス5覚え書き
「ジャズに聴こえないジャズの未来を複数の勇者の耳で」とFace Bookで呼びかけたわけですが、福島恵一さんが予言「ジャズのヘテロトピックな空間」■どおりの?ジャズファンには驚きの前半の選曲でありました。
曲目はこちら「tracklisting」■
雨の日曜日に来場された勇者のみなさま、菊地成孔粋な夜電波を裏送りにして来場されたみなさま、ありがとうございました!
1曲目、シカゴのジャズメンなのにヨーロッパのアンサンブルのような、作品のテーマを「ジミー・ジュフリー」「ベニー・グッドマン」と、プレモダンの文脈を続けてきたグループ「クラングKlang」。クラリネットとエレクトロニクスのフレイバが新鮮。
2曲目、Tzadik Composer Seriesから、昨年アルゼンチンの音楽サイト『El Intruso』の2011年ベスト■で5票集めていたジェレミー・サイマーマンJeremiah Cymermanの『Fire Sign』のトラック5。即興もエレクトロアコースティックも現代音楽も混交した、わたしの好きなものがすべて入っている(!)16分34秒。演奏の密度、配置、サウンドの解像度、そして構成力、これはちょっとこれまでの手持ちCDを何百枚かは中古盤屋に行かざるを得ない、満足度の臨界点を更新するブツである。前半にかすかに鳴っていたモールス信号のようなサイン波のような、耳はあわてふためいて空間に満ちる音響すべてを聴きもらしてはなるまいと必死だった。
3・4曲目はクリス・スピードのレーベル「スカールSkirl Records」から。4曲目のクラリネット独奏は、循環奏法で倍音をハウリングさせる、響きに焦点があたる演奏であるが、ポトラッチ「Potlatch」レーベルで聴く同様の奏法の作品に比べて、明らかに歌っていた、ビリー・ホリディ!の感興のように響いたのが新鮮だった。奏法は最前衛だけど、じつにそこにジャズを感じた。
5曲目はスティーヴ・リーマン・トリオ。デミアン・リードの「なまるリズム」。これは頭でカウントして構成するリズムというより、そのリズムごと体内快楽によって駆動されているもののように感じる。すげーかっこいい!演奏の放つ表現の空間性はかなり広くてアクチュアルだ。
6曲目のヴィジェイ・アイヤー・トリオ。これは5曲目に比べるとリニアーな感じだが、シーンの潮流を感じることができる。
ここから後半。
7曲目。プーさんのサンライズ。プーさんがensemble improvisationという語を気に入っていると言っていたわけだけど。瞬間瞬間に響きの“アンサンブル”を、すごい高いレベルで演っているんだな。ゲストのピアニスト/作曲家の佐藤浩一さんがコード名を読み上げるように彼らの演奏の瞬間瞬間の卓抜したサウンド進行の凄さが語られる。ああそうか、プーさんからモティアンの「耳の良さ」を何度も聞いてきたけれど、打楽器であるモティアンの放てる音程や響きはかなり限定的であるように思いがちながら、打点やリズムのみならず、よりむしろ、卓抜した耳の良さで放たれた響きでサウンドを推進していたということなのだ。常に未解決な響きがぼくらを未来に連れてゆくように、音楽は進むのだ。ピアノを旋律で、ベースをリズムで、タイコをビートで解析するしかない耳にあってみればわからないというのはそういうことかなあとも。プーさんは当初この録音が気に入らなかったのをモティアンが介入してアイヒャーとこの作品をまとめ上げ、プーさんの耳をチェンジさせたという、モティアン伝説最期の逸話も凄まじい。タイショウン・ソーレイがプーさんとお手合わせをして叩けなくてしばらく顔を出さなかったというエピソードもあり、その後のソーレイの創造の爆発を聴けばもちろん才能が土台にあってのことだがミュージシャンはミュージシャンを育てるのだ。ゲストのピアニスト佐藤浩一さんは、ソーレイの感覚がわかるという。その、わかるということは佐藤さんが超一流のミュージシャンの証しだ。
8曲目。ティム・バーン。14分ちかくの曲だが、ECM者のわたしは4・5回聴いただけですべて暗誦することができる、と思い込めるくらいに完成されたロジックが、まるで交響曲のような、90年代に凶暴なサックス奏者ティムバーンをスクリューガンレーベルで聴いていたのとまるで成り立ちが別な音楽。ティム・バーンにとって、ティム・バーンが客体化されたように聴いている態度が録音から視える。それはECMの本質に触れる点でもあろうし、考えさせられるなあ。
このへんでおれの頭の電池が切れてきた。
9曲目。ごおおお。ヤコブ・ブロの『バラッダーリング』(あれから出会うみんなが傑作だ傑作だと騒ぐおれも騒ぐ紛れもない新世紀の名盤)の続編!え?え?え?この宇宙的郷愁の電子音はフリゼールが出していたのお?この感覚的な新しさ、は、てっきりブロによるものだと聴いていた!背中が曲がって座って吹くコニッツも美しい。ここでもベースの新帝王トーマス・モーガンだ。不在のモティアンも聴こえるようだ。
10曲目。Eivind Opsvik のオーヴァーシーズ4。か、か、か、チェンバロだよ!ジャズというよりかなり良質なポップス、おれ、まじでポール・マッカートニーが歌い始めるならここだ!と思う。スフィアン・スティーヴンスも真っ青だぜ。おれはマンフレット・アイヒャーとポール・マッカートニーが夢に出てくるんだぜ。何言ってんだおれ。
あれ、おれ途中で雅楽をかけたな・・・。
西洋楽器が自我を主張するのに対し、日本の伝統楽器は自然そのものになる、というのは興味深い。右脳と左脳はわからんが。サウンドを自我でコントロールしないところに漂う現代ジャズの趨勢、個々の演奏のラインを重視する態度から、響きのアンサンブルに投機しあう態度、自然音やノイズ、電子音と対等にアンサンブルを思考する手付き、・・・
2010年にお水取りを体験して、マイケル・ピサロ作品を触発として、福島恵一さんの講演「耳の枠はずし」で「即興演奏は最初から音響を問題にしていた」ことにECMをも再発見し、衝撃のジル・オーブリー体験、まさに耳の空間化が果たされ、・・・、と、それは耳の個人史にとどまるところではないようだ。
ラップのThe Rootsという若者だってここらへんの耳は意識化しているみたいだぜ。
ミュージシャンたちもまた、遭遇と触発を繰返して、獰猛に音楽のフィールドを拓いている。おれはまだそれを語る語彙が少ない。サムシングを感じることにかけては多少の自信があるんだが、それを共通認識にまで持ってゆくのには、他者との、ここでも遭遇と触発が、圧倒的な贈与のかたちを持って降りてくる。音楽はわたしたちだ、と書きそうになって、その途方も無さ、届かなさに立ちすくむ思いがする・・・。
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