Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2009年09月23日(水) ヘンデル没後250周年記念公演 オペラ 《オットーネ》

ヘンデル没後250周年記念公演 
オペラ 《オットーネ》 日本ヘンデル協会コンサート・シリーズ vol.4 
北とぴあ・さくらホール 

指揮・チェンバロ:ローレンス・カミングズ 
ザ・ヘンデル・インスティテュート・ジャパン・オーケストラ 

ヘンデルに溺れる。古楽のオーケストラがステージの中央。序曲が奏でられるあいだに。響き渡った即座に、このアンサンブルを統率するチェンバロ奏者ローレンス・カミングズの圧倒的なこの音楽に対する見識の揺るがぬ深さといったものを感得する。それは、ワタシがこの演奏を鑑賞するという現象から、ワタシは即座にこのヘンデルの音楽に投げ込まれたという様相だった。

アンサンブルの響きの中庸。アンティーク家具を思わせるたたずまい。キンキンに磨き上げられた響きとか荘厳な揺るぎない響きとか、かくある表現なりを押し付けられるうっとうしさがない。ついうっとりと聴き入って数十秒の時間なのに、わたしは42年まえ小学1年生のときの木造校舎を思い出し、校舎のはずれにあった低学年用の広いトイレのコンクリートの肌触りや陽のあたる窓からどのような気持ちで外を眺めていたのか、(ぼくはおとなになってもこのけしきをおぼえているのかな)と思ったそのことを思い出していた。なんだ?この体験は。ヘンデルの音楽ってなにかひとの意識や記憶の深いところに届くちからがあるのだろうか?

チェンバロが向かい合わせになったアンサンブル、指揮をしながらチェンバロを弾くカミングスは上半身と頭の動きでヘンデルの音楽を揺らしている。このアンサンブルの一員となって奏でている心境とはどのようなものだろう。聴く者も、アンサンブルも。指揮者も。ヘンデルの音楽の下にいる。音楽はわたしたちを鳴らしている。

ヘンデルはメサイアや水上の音楽くらいしか知らないが。たしかジャレットも一時「ヘンデルは過小評価されている」と言っていた。

日本ヘンデル協会は没後250年のヘンデルイヤーの今年、この公演と、翻訳本を企画していたようです。
《ヘンデル ─ 創造のダイナミズム》 Cambridge Companion to Handel
(ドナルド・バロウズ編)の日本語版です。
藤江効子・小林裕子・三ヶ尻正 共訳 春秋社から7月末出版 A5上装 628ページ \5500+税

この公演も、アンサンブルの演奏だけをじっくり聴いてしまいました。

オペラの演出は、アンサンブルを囲むように設置された板箱の上を配役が衣装をまとって登場するのですが、配役が歩くたびに足元がギシギシと音をたてて、観る者はさくらホールの上で行われている意識から演劇世界になかなか飛翔しませんでした。


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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