Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2007年12月17日(月) |
『死人(しびと)』 JINYA DISC |
『死人(しびと)』 JINYA DISC 吉増剛造(朗読) 高柳昌行(ギター) 翠川敬基(チェロ)
死人(しびと) 古代天文台 オシリス石の神
吉増<石狩シーツ>剛造、詩の朗読。高柳<解体的交感>昌行、ギターとラジオ。翠川<緑色革命>敬基、チェロ。の、ライブ録音。
そんな録音があったのか。詩の朗読と即興演奏のコラボレーションといえば。きわめて60年代的な。先鋭化して70年代的な。おびただしい試みが行われたと思う。ぼくが通っている図書館にはブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』しかなくて、フランス発のアート・アンサンブル・オブ・シカゴの衝撃だけが21世紀に伝わる文化遺産になっているのだろうか?などと思い、そういうものかもしれないとも思い。
吉増剛造を知ったのは「石狩シーツ」1995という朗読CD(背景音がモンドで良い)で、その耳のショック、朗読の喚起力はおそらくこのジャンルにおける傑出したもの。異界からの声を現前させるこの作品に接して、現在最も注目される作家・古川日出男も朗読を行うようになったとも。
その吉増の先行した試みに高柳がいた、というのは、日本のジャズにおける高柳の重要度を認識する者にはいささか興味深い。この録音がなされた1984年、高柳はディレクションからアクション・ダイレクトへ移行中の時期だとされているが、そのメタ・インプロヴィゼーションという概念をおれはよくわからない。この録音を聴くに、速度とエネルギーの権化として屹立していた高柳ではなく、その速度とエネルギーのいわばボイラー室から噴出した蒸気によって排気口にくっついていた灰くずのような無機物が気まぐれな痙攣運動をするかのような映像がおれには感じられた。それがそうだというのなら、そうなのだろう。
おれがこの録音を偏愛するのは、高柳が直感的に正しくここで用いた短波ラジオの音のコラージュであり、電気ギターの電源音をじっと鳴らしている態度を挿入していることにある。すでに高柳は音響派も大友良英も折り込み済みだった、と、刺激的なことを書いてしまうのも可能ではある。そんなことは流行でしかない。おれはそのことよりも、2007年になってこの1984年の録音がCDとなってよみがえってきて、発掘された音源という意味ではなく、高柳昌行が現在生きて(蘇生の意ではない)奏でているというこのリアリティにある。音楽、や、演奏家、が、時空を越える、という新興宗教めいたことを記述してていいのか?・・・夜に、音楽は夜の音楽、コトバは夜のコトバ、と、つぶやく。
ラジオ短波が。犬の遠吠えが。そして田村夏樹の『コココケ』が耳に召喚される。
この『死人』とともに、わたしは『しばたやま』という吉増の朗読と渋谷毅(ピアノ)+川端民生(ベース)の録音を手に入れた。そこでの渋谷、川端も、特別な演奏だった。日本のジャズは欧米に比してどうのこうのと眠たいことを言ってはいけない。日本の文化土壌でかつて存在した試みや成果は、いまだ知られず、そして現在のわれわれを変容させ始めることが起こってくるようだ。
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