Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2005年09月30日(金) |
はまあゆの「Heaven」について思うところを記す。 |
「あの日、きっと、ふたりは愛に触れた」という過剰な思い込み、妄想、が、この歌を起動させている。
その“愛に触れた”と認識した出来事というのは明言されておらず、さしずめホストの兄ちゃんが営業スマイルで差し出したインチキカクテルあたりが「ただあまりに綺麗すぎて、こらえきれず涙溢れた」というものだろう。クリーニング屋の兄ちゃんが差し出した50えん引きサービス券とか、部活の先輩が差し出した走り書きしたメモの筆跡のことかもしれない。 その程度の、オトコ側が到底認識できないささいな事象である。 そうであるから、「あの日、きっと、ふたりは愛に触れた」というオンナ側の一方的な宣言が成立する。 もしオトコ側との合意的な認識が成立している事象であれば、そっちを言質として、内容を歌詞に組み込むはずだからである。
このささいな事象を起点とした妄想が、一気に生死を賭した運命にまで置き換えられるダイナミックスさ、病理、が、この歌のキモである。
「信じて。愛するひと。わたしの中で君は生きる。」 この“信じて”は、相手に対して“信じてください”ではなく、自分に対して“カレはわたしの中でしか生きることは許されないことなのよ”と“信じて”いる、いのちをかけてえいえんに、というとても怖い宣言なのである。それは“君”という見下しの呼称が保証している表現である。
さらに、これまで給食を残したり学校サボったり万引きしたり家出をしたりクスリをやったり売ったり買ったり切ったり貼ったりしたことまで、 「時には自分を見失って」「私たちは捜しあって」この「運命と呼ぶ以外他にはない」ふたりの関係に合理化されてしまっている。
ほえっ?な、なんでですか、その思い込みの激しさは。オトコはおののくだろう。これはさしずめゴスペルの形式である。
はまあゆのヴィジュアルはエジプトの王妃の形象をしているので、この歌の超然さを定位させるのは可能だ。 これがもし倖田來未が歌ったならば「おいおいー、ブスがナニひとりで妄想してんだよー!ブスのくせにエロって腰ふってんじゃねーよ!」と、だあれも見向きもしない歌曲にとどまったであろう。
PVでは地下鉄のホームで歌うはまあゆの左右・背後を霊体がさまよう映像となっている。そんな世界にまでおりていって「あなたは生涯わたしのものなのよお〜」と勝手に想われてしまうオトコ側のことを考えると、はなはだ怖いものがある。
友人の弁護士から、満員電車で痴漢にあったと一方的に騒ぎ立ててサラリーマンから示談金と定職を奪っているとしか思えない瞳がイッっちゃっている若い女性の急増を危惧するエピソードをきくと、「そいつらみんなはまあゆのリスナーじゃねえのか?」と思う。
この歌は狂気である。はまあゆの歌ははまあゆを量産する。エイベックスは国賊である。・・・ ・・・とまでは言わないが、この「Heaven」のPV、観てしまうなあ。・・・地下鉄の轟音を、もっと地下鉄の轟音を!
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