Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2005年02月21日(月) |
ピアノの余韻を含めての音楽である・「恋のはじまり/スピッツ」 |
20年くらい前、ピアニストのソロ公演で、そのピアニストが誰だったか、ジャズかクラシックかも忘れたけど、前の列のひとりの観客がピアノの最後の一音を置いて2秒もしないうちに我先にバチバチと拍手をするのに立腹して、休憩時間の開始とともにその観客の前に仁王立ちして「ピアノの余韻を含めての音楽なんだから、あんたの拍手は迷惑なんだ。あんたは音楽を聴いていない。帰れ。」と苦情を述べたことがあった。
10年ほど前には、拍手が静まるのをみてから「拍手がはえーんだよ!」とコンサートホール全体につぶやいたこともあった。
拍手をいつしようがその観客の自由であろうか。わたしはそうは思わない。
でも。ふたつのコンサートの雰囲気を台無しにしてしまったような気がする。 わたしは我慢すべきだったのだろうか。我慢したら、その演奏が可哀想だ。
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アマチュアというのはその原義どおりの「愛するひと」という意味である。 この情熱こそが前世代の専門家たちの狭窄や偏狭や窒息や充血を更新する。音楽は聴くひとのものだ。 エスビヨルンスベンソンもはまあゆもフジ子ヘミングもゆずも湯浅譲二も阿部和重も彼らのものなのだ。
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すでに彼が歌うべき大切な歌たちを作ってしまった感のある草野マサムネくんだけど。 「恋は夕暮れ」で鮮烈にかつ決定的に詩的な恋の定義を繰り出したマサムネくんは、最新作『スーベニア』の「恋のはじまり」でこのように歌って隠した牙を見せていた。
「恋のはじまり」 思い出せないのは君だけ 君の声 目の感じ 思い出したいのは君だけ ぼやけた優しい光
この歌い出しは、恋はすでに始まりから懐古であること、出遅れていることの焦燥であることを指している。 恋をする相手はゼロから目の前に現れるのではなく、すでにわたしが出生から記憶する母親のみならず近所のおばちゃんとか友だちの姉ちゃんとか、怖い親戚のおばあちゃんとか、うんこを取ってくれたおっかない保育園の先生とか、いじめていたおおきなお目めのきょうこちゃんとか、場合によってはひどい目にあったいじめっこの憎っくきわたるくんの笑顔なんてのが、正負ないまぜに彼女に向かって投影されて出会っているのである。
よく話してもいないのに相手の性格が正確にわかってしまうという恋特有の様相というのは、互いに相手の「かくかくしかじかな性格であってほしい」という欲望を瞬時に読みあったりしているからである。
手をにぎったり、ほっぺたにキスしたり、大人のキスをしたり、いろいろ接近遭遇する過程というのは、妊娠の相性をタンパク質やDNAレベルで探り合っているという、という科学的な説で納得すると、うまくゆかない恋というのはまったく本人たちの責任なしにうまくゆかなかったりしているのである。
それにしても「君の声、目の感じ」というのはいい指摘なのですね。 文明が発達してメディアが効率的であるのと同時に画一的に欲望を喚起するようになると、近所のおばちゃんとの付き合いとか、親戚とか、個人と地域に根差したコミュニケーションが希薄になるせいで、ばらけた趣味趣向の「君の声、目の感じ」を得がたくなってしまい、それがひいては、先進国における出生率の低下という現象になっているのでしょうか。 隣人を愛せよという警句のグローバリゼーション下における役割りはそこか。うまくできてるな。 生身の人間よりアニメのキャラのほうがリアルだ、と、そういうのはちょっとこまるかも。よ。
さて、次回は、なぜ最初の男の子はお母さん似であり、女の子はお父さん似であることが多いのか、という議論にすすもうと思います。
うそです。
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さて、ここまで辛抱強く読んでくれたみなさんにロヴァ耳裏ベストアワード2004ECM奥義部門グランプリに輝いたこの作品をこっそり。
『SELWA / Choying Dolma & Steve Tibbetts』■
Like fishermen slowly freezing to death.「釣り人が緩やかに死にゆくかのような音楽」とまでフライング気味に評されたティベッツ。 音楽に麻薬があるとすれば、これもそのひとつ。ティベッツのギター音に導かれる精神的共同体をぼくは23年前から想定している。 この音楽はデヴィッドシルヴィアンや坂本龍一、ラルクアンシエル、クリスチャンフェネスへとダイレクトにつながるものでもある。
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