Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年10月25日(月) |
オーネット・コールマンの『ヴァージン・ビューティー』 |
そいえばオーネット・コールマンの『ヴァージン・ビューティー』は90年の作品で。 グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアが参加した楽曲もあって、このジャケ。■ クリックしてジャケを大きくしてみると、この女性たちの剥き出しの白眼の美しさが衝撃的だったです。ガイコツという死と隣接した美。 裏ジャケがヨーロッパの貴婦人たちの舞踏会のシーンであること。
思えば、オーネットは90年のこの作品がシーンの最先端に登場した最後であった。音楽的には。その後はいろいろと老後の褒章的活動。
ロヴァ耳「現代ジャズ90年代評定委員会」は90年代をヘンリー・スレッギルとジョン・ゾーンの活動を中心に据えて再定義を試みるものであるが、1枚目はオーネットのこの作品によってページはひらかれるのかー。 スレッギルは『Spirit of Nuff...Nuff』(1990)、『Too Much Sugar for a Dime』(1993)、『Carry the Day』(1994)の充実期。 ・・・ それにしても『Carry the Day』はいいジャケでしたー>■
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岡林信康の『わたしを断罪せよ』『見るまえに跳べ』を再聴してみて、「キリスト教アイテムの日本人への再強化に過ぎなかったわけだしー、60年代の終わりとグローバリゼーション受け入れ準備をしていた歌だったんだしー、あまり今聴く意味ないしー」と述べていたら、「ただくん、岡林の真価は『金色のライオン』(1974)を聴かなければならないものぞ」と師匠に叱咤されてしまう。誰か聴かせてくれー。
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先日の三善晃の「レクイエム」(1971)再演は、言葉にならないほどの素晴らしさだったそうだ。会場で悠雅彦先生たちが「ただくんも三善晃を聴くのか」と目を丸くされたそうな。大塚愛もアジカンもハルカリも聴くぞ。
友人が、その演奏の体験を語った言葉の中に、いまこの空間に存在する死者たち、といったものがあった。
特別養護老人ホームや葬儀屋や、深夜の霊が徘徊する現金輸送の仕事をしてきたわたしには多少は想像できるジャンルである。 ちょうど内田樹の『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』を読んでいるけれども、死者を弔う意味がわかってきたばかりだ(気のせいかも)。
新潟県中越地震を銀座にある巨大なビルの中で震度4ちょっとで体験しながら、911WTC崩壊で一瞬にして死体すら残らない死者となった現象を考えた。いてーとも思わないで死ぬなんて羨ましくないか?不謹慎な思考の「可能性」はないか。
ラカンは第二次世界大戦中、マルセイユとナチスドイツ占領下のパリに、正妻と事実上の妻(ジョルジュ・バタイユの正妻!)がいて、シトロエン5CVに乗って2週間おきに往復するような生活をしており、それぞれ同時期に妊娠したりしている。いやー、ラカンくん、あんたはえらすぎ。
カミュの『異邦人』のペストの暗喩、この歳になってわかりましたです。
サピオ10・27号のP42で『人口減少経済の新しい公式』松谷明彦著(日本経済新聞社)の著者インタビューが載っている。そっかー、子どもをたくさん作ってもだめなのかー。20年以上音楽を聴いてきたひと限定の音楽誌を10年後に作るぞ。Don’t trust under 40。
30すぎの未婚子なし女性を「負け犬」と言うことが定着しているそうである。 わたしが勝ち犬にしてあげようか。わたしは遺伝子だけは優秀である。実績もあるぞ。菊花賞を見たか。なにごとも血統だぞ。
ただし条件がある。週に一度は子どもと一緒にお風呂に入らせてほしい。従って首都圏在住の女性にしか応募の権利はない。 人生の三大楽しみ、新譜CDのパッケージ開け、恋愛トップモードでのえっち、子どもとのお風呂、である。
もう、これしか残っていないんだよな。
ソウル・フラワー・ユニオンの『極東戦線異状なし!?』■を開ける。 河内音頭みたいな「インターナショナル」、いいなーこれー!
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