頭痛と夢 - 2007年04月08日(日) さっきソファで昼寝をしていたら悪夢を見た。 寒かったからだと思うのだけど。 悪夢、というか、完全に架空の話なのではなく、例によって学のことを苦しんでいる夢であった。 苦悶の末、わたしは倒れてしまう。 父や母が心配してわたしを抱き起こしてくれる。 そのときわたしは、確かに薄目を開けていた。 薄目を開けて、彼らが自分にかまってくれるのをしっかりと確認して、それからまた目を閉じて体の力を抜いた。 そんな夢だった。 フラッシュバックと言うほどに前後不覚になるわけではないが、やはり時折、あのときの光景が目の前に展開し、頭のてっぺんからつま先まで、体ごと、あのときに投げ込まれる。 わたしは呆然としていて、学は虚空を見つめている。 腐敗しかけた学が、わたしの背中におぶさる、という感覚を感じることもある。 腐敗しかけていても学は学で、わたしは彼がいとおしい。 学は子どもだった。 当たり前だ。仕方のないことだ。 わかっていることだった。 その子どもを、わたしは殺した。 子どもを、まだ自分の力で何かを判断したり、自重したり、コントロールしたりすることのできない、子どもを、わたしは殺した。 周囲の大人たちのの手のひらの上で踊らされ、周囲の大人たちの指先一本の動きにそのたび翻弄される子ども。 殺したんだよ。 ここでうんうんうなって考え込んでいるだけで答えが出るのかどうかはわからない。 しかし宗教とかスピリチュアルなどに向かうのも、なにか違う感じがする。 先日、自分の子どもが自殺、あるいは自殺未遂をして生き延びた、という経験を持つ人たちのルポ本を手に取った。 やはり、まだ読めない。 読むのが怖い。壊れそうで怖い。 ヤフーのトピにも、一度は行ったがそれから触れることができず。 結局、怖がって逃げているだけなんだよな。 宗教はちょっと、と書いたが、すべてを捨てて出家するべきなのかもしれない、とも考える。 いや、本気で。 今すぐにではない。 でも時期が来たら。 そうして、一生、償いながら生きていく。 これが答えかもしれない。 なんだか、しっくりする気がする。 何教だっていいのだ。 自身を世俗から切り離し、償うために生きていくことが目的なのだから。 その目的が教義に沿うものでありさえすればよい。 それさえ叶えば何教だっていいのだが、したがって、本当に文字通りの「出家」でなくてはいけない。 近所のお寺さんのように原チャリで檀家回りをするような生活ではなく、本当に、世俗と離れたところで生活をしなくてはならない。 もしかしたら、わたしが求めているものは戸塚ヨットスクールでの生活なのか? 戸塚ヨットスクールでは、生徒を真人間として社会に送り出すことが最終目的とされていたような気もするが、その趣旨にとどまらず、そこに骨を埋めることをも是として受け入れてもらえるのならば、それでもいいと思う。 しかし戸塚ヨットスクールでの生活についていくためには、まずは体を鍛えねばならない。 先輩や教官のリンチ…もとい、しごきに耐えうる精神力も身に付けねばならない。 よもやわたしがそんなことを考えてスポーツジムの広告に見入っているとは、誰も思うまい。 アホみたい、と思われるかもしれないが、自分ではアホなことを考えているとは思っていない。 何か、何かしなければいけない、でも何をしたらよいのかわからない。 学、どうすればいいのかな。 尋ねても答えは聞こえない。 自分で考えなければいけないことなのかな。 -
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