「できそこないの恋は、見栄えが悪くて、きっと誰にも見守られない」
そんな詩が、どうもこころから離れることがない。
僕は、この「できそこないの恋」って言葉に、グッとくるのです。
できそこないの恋しかできない私。 懸命に人を好きになっても、けっきょくは、できそこないなんでしょう。
でも、できそこないであっても、 人を想うということだけは、純粋で、とても確かなことで。 想うことは、どうにもならないこともありますし。
ただ、最近私が想うのはね、 将来とかそういうものをおいといて いま、その瞬間に、人を好きになる気持ちとか、人を想うことを、いまその瞬間を大切にしていければいいのでは。いまこのときの自分の心や気持ちに、素直に正直にいることが、自然なことなのではって、想います。
人は、いずれこころは変わるし、離れていく 私は「別れ」というものに、非常に弱い人間なので。 それだけ、恋をすると人を深く想うのでしょうが。 逆に、それを抑えようとする条件反射的な面もあり。
ある意味、そうした別れが、やがてやってくるっていう事実を、覚悟して、 いつやってきてもいいように・・・人と対峙するようになってしまったという理由が大きいのかもしれない。 だから、いつでも、「もし自分でよければ」という言葉を、人にはそう念を押すことが多い。
恋は、別れる時が一番肝心。 なんて、ある種考えたりした。
私の恋は、できそこないあってもね。
恋をすることと、愛することは根本的に違う。 愛の形って、人それぞれだから、これがこう!!というものは 案外ないのではって想ったりします。 だから、自分でも、愛ってよくわからない。 ただ、ずっと変わらないものが、本当の愛って気はしますが。 短い時間とわかっていても、濃密な愛を遂げる人だっていますし。
きっと、僕は相手の言葉、しぐさ、それ以上に、こころが通っているとか満たされるとか。この人だからこころが動かされるとか。この人だからこその「こころの結びつき」を求めるところがあるのかもしれない。この人とこの時間をいっしょにいれたらいいというか・・・
でも、それだけじゃだめなわけで。人は、好きな人になにが与えられるかにかかっていると想う。時間であったり、モノであったり、思い出であったり。場合によっては、結婚かもしれないし。
僕は、できそこないなので、充分に与えられない人なのだろうな。ここ数年で、そう考えるようになりました。
ただ、自分が出来ることといえばささやかなことで。 相手と一緒に、こころから泣いたり、悲しんだり、とても喜んだり、共感したいり、静かに見守ったり、あたたかく包み込んだり、ときにそっと抱きしめたり。その瞬間、対峙する人と真摯に向き合って、元気になれるような、やさしい時間を作り出せたら。それが積み重ねられたら。それで、自分が必要とされているということを感じられることでもあるし。
もっともっと、人になにかを与えられる人にならなくちゃいけないのだろうね。きっと。 たとえ、自分は人に愛される人ではなくても、自分だけは、人の幸せを喜んであげられる人でありたいな。
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