普段、仕事上でも、さまざまな人と逢わなくてはいけなくて、 もちろん、一期一会という言葉を重んじるとするならば ありのままの自分でぶつかって、しっかりと会話がキャッチボールできる形がもっともいいのですし、人との出会いやつながりをひとつひとつ本当に大切にしていきたいと思うのですが
どうしても、ストレスが溜まる相手とか、理解できない人というのもいないわけでもない。こればかりは、考えすぎるとどんどん深みにはまってしまうから、あるラインで、割り切ることが大切だけれど、だからって、向き合わないわけにもいかないから。嫌なもの、納得いかないものは、いかないといえるものならいいたいし、自分の常識とは全く違う人とは、無理なものは無理ですけれど。そうした中で、どう自分の中で折り合いをつけて、一番お互いがここちよく対峙できるかを、調整していく必要が生まれます。
無論、私の方の言葉が足りなかったり、本意が伝えられなかったり、ときに相手からみて失礼だと思わせているかもしれません。そこは謙虚になって、自分をたびたび振り返って、どうだったのか自問自答することで、反省しなくてはいけません。
ただ、自己中心的で、自分がすべて正しい・・・そのくせ、悪いことは人のせいにして責任を擦り付ける・・・だれもが見てて見苦しい人も実際いるんですよね。立場とかの差があるから、許されるのでしょうが。僕も含め、心の中では「かわいそうな人だ」と思う反面、こんな人に振りまわされて、割りを食うのだから溜まったものではないと・・・そういうのもストレスになる。
なかなか人は思うようにはいかない。ルールやマナーってあるはずなのだけれど、それを無視しても許される人がいるのがこの社会には往々にしてあるから。
まっとうに生きるためには、どこかで、人や環境を選び、ときには手放していくことも大切なのかもしれません。もちろんガマンしたり耐えたりすることが何事にも重要ですが、その先になにが得るものがあるという確信を抱くことができるか出来ないか。そこをきちんと判断することって、とても大切なことのように思うのです。
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よく、みんな(子供を教える教育者も含めて)「話せばわかる」と教えられたり、教えたりするけれど、話してもわからない人もとても多い気がします。人として常識的なこと、当たり前のことがわからない人が、人の上に立ってたりするし。そういう人は、なかなか下の人が話しても、進言しても、聴く耳持つ人はいないでしょうし。人が変わるということは簡単なことじゃない。
ちょっと話がそれるけれど、前々から、「いじめ」の問題って、「話せばわかる」ということに過信する教育に問題のひとつがあるって思ってるところがあって。教育者がそれに固執するから、どんどんいじめる子も「わかったふり」して、いじめも陰湿になって、いじめを苦に自ら命を絶つ子供が後を絶えない気がして。互いが話し合って解決しようじゃなくて、いじめる子には、それなりにペナルティーを与えることも必要だし、それでも、話し合っただけで、いじめる子はなかなか変わらないならば、まずは、いじめにあってる子の命を絶たせないこと、守ってあげることが一番なのに。いじめる子がいい子に変わると思っている。いじめる子が「話せばわかる」ような子なら、最初からいじめたりしないから。
いじめられる子が、苦しんで、ときに学校辞めなくちゃならなくて、ときに命を失って。一方で、いじめた子は、何事も無かったように卒業して、先生もなにごともなかったように・・・それじゃいけない。
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最近、人にも、親にもよく言われる言葉
「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」
この言葉、最近本当にこころに響くのです。自分だけはそうありたいものです。
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