どんなに、愛していても、好きであっても、離れていく人の心は、どんなにこころから尽くしても、留めることは出来ません。別れは、突然やってくるものです。そして、自分のふがいなさ、後悔が残る
そこで、落ち込んだり、相手に対して断ち切れなかったり。 しかし、僕は、ここでどう、あきらめるか、どう考えるかで、その2人で過ごした時間や思い出が大きく変わってしまうと思うのです。
もし、相手も、自分に対して、懸命に好きでいてくれてた。
その事実があるとして、 その恋の終わりの際に、痛々しい言葉を投げてしまうのは、相手をすべて否定してしまうことにつながってしまいがちです。
この人と付き合ったから、いろんなことを学んだし、思い出もできた。 寂しいときそばにいてくれた、キスをし、抱きしめあった肌のぬくもり、言葉のぬくもり感じることができた 人生の中のある期間を、あなたと生きること・共有することができたと。ただ、できるならば、一生あなたと生きることができたら。
別れとは、そういうものです。 いとおしい気持ちも、深い愛も、別れを経験するとそれらは、自分のこころに傷としてのこる。痛さを癒すには時間が必要になる。ある意味残酷ではある。正直、私は人一倍、その別れという儀式に精神的に弱い。いままでの、ここで語れないような経験で痛切に知ったから。
傷つきたくないから、恋愛に深く入り込めない 誰よりも、弱いということになるのかもしれません。 人のこころも、愛情も、「不変」ではないという前提が、僕にはあるからかもしれない
確かに、僕に対して深く好きになってくれる気持ちはうれしい そこに甘えたいと思ったりもする。
自分は、相手に対して、どう相手にとっていい時間を作れるか。たくさんお話を聞けるか、悩んでいるときならば、静かにそばにいて、うんうん。と胸のうちを聞いて受け止められるか。喜びを同じように共有できるか。抱きしめてほしいときに抱きしめて上げられるか・・・
それだけです。 多分、自分の胸のうちや本音の部分をぶつけ合い、こころが通う、通じ合う付き合いをした記憶がない。こころ揺さぶるような、密な言葉のやりとり、ひと言ひと言に精神を集中し、お互いが相手のこころに入っていく。相手の言葉の裏にあるもの、こころの裏に潜んでいるものを、なんとか探ろうとする。引き出そうとする。そして、ともに泣いたり、こころ震えたり・・・そんなやりとりを、もうとうぶんした記憶がない。
相手は、私を必要としなくなったら、そのまま消えていく でも、それを僕は否定しない。それはそれで・・・自分の力不足だったということだろうし。
ただ、自分の根底には、踏み込めないラインを越えることが、いつか出来たら・・・できる人がそばにいたらと思う
愛に溺れ、落ちていくのも良くありません 終わった恋にしがみついても、なにも成長はありません
僕は、静かに生きていきたい 静かに人を愛して、 ずっとずっと、自分は良くも悪くも変わらず。 以前、「慈愛」について書いたけれど その「慈愛」に近づけたら
だけれど、人の変わるこころは、 どうにもならないことだけは、しっかり胸に刻んで。
人は、私の前を、通り過ぎていく 時間の流れとともに
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