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その一言だけが私を、私の両足を支配していたのです。 そうやって働かない頭で書き残して寝て、他人のweb日記でそれを叩かれた 夢で目覚めて気分悪くなるって、なんてマッチポンプな奴なんでしょう私は。 死にたいだの死ぬのが怖いだの分からないだの遠征行きたくないだの、私を含め 人間って、どうしてこう、他人には解決不能な…結局、自分自身でどうにかする以外 なすすべのないことを人へ、大切なはずの存在へこぼすのだろうって思います。 こう、なんて、人間って、不便にできてるんだろうって。心なんて、感情なんて…。 それが誰であったとしても、怒ったり、悲しんだり、無表情だったりするよりは 笑ってるのを見る方が快い―当たり前。そういう風に人間はできてるから。 …2時間近くあっただろう練習で、私が目にした笑顔が、minutesという単位にもならない 刹那的なものであったとしても、それでも幸せだったから、アホだなって。 生きることは面倒くさい、でも面倒くさいって感じるのは生きているから。 卵が先か、鶏が先か―何かを許せる許容量が大きい人が大人、その言葉が染みます。 幻想の生み出す実在しない腕と、ぬくもりもあれど私を傷つけもする実在の腕。 どちらの腕に抱かれる方が幸せか―答えは簡単なようで難しく容易で複雑。 備忘録として生まれて初めて自力でCGIを稼動させたとはいえ、ビデオと一緒で メモを貼り付けることで満足して忘れそうになる自分がいます。危険(笑) 慣れ・忘れは危険。当たり前だと思うのも危険。この世で唯一当然なのは 人がいつか死ぬことだけ。それは人生で一番不確定な要素でもあるから。うん。 あと、自分は自分であって他人は他人であるという、我が最大の悩みにして厳格な事実。 最低限、他人に対してお礼を言うべき時、「ありがとう」と言える人間でいたいです。 自分や他人が生きていること(=存在そのもの)やその行為に感謝を抱けるだけの ナイーブさというか感性は持っていたい。逆に、人を傷つけたら(それ自体は 他人の心が自分には思い通りにならない以上、不可避な面はあれど)謝れる、 「ごめんなさい」と言える人間でいたいです。それが、人と人の間にいるニンゲン。 社会的存在としてのニンゲンと、生物としてのホモ・サピエンス個体はイコールじゃない。 本当は書きたいことがどっさりあったのに、眠気には勝てません。ツーロンの 録画が終わったら、放送中はきちんと見れなかったそれをBGV(結局のところ、 真面目に見る気はあるのかないのか…)にして眠りにつこうと思います。 カシマへ行かないと後悔するかもしれない、でも、後悔してもいい、後悔は むしろ望むところ…けれども、行く気が起きない、チケットが舞い降りてこなければ。 松井には“中盤の美技封印令”(サンスポ) >西村監督から「次は五輪でスタメンになる方法を追求して欲しい。 >中盤では簡単にボールを動かして、自分の良さはゴール前で出せ」と助言。 松井さんのチームの監督が西村さんって、今思うと変な感じです。西が丘を思い出すと。 「20番は、プレミアにはいない素晴らしいタイプのFWだ」(サンスポ) オーウェンは玉田さんを認め、会員ページによるとユニフォームを交換したそうです。 今日は一日意識がはっきりしない状態で、おそらく昼に安定剤と市販の風邪薬を 飲んだことをいったん忘れて飲み直した(!)のが一番いけなかったと思われます。 私も1回ごとに小分けしておくケースを買うべきなのか…風邪薬とはいい加減 お別れしたいところなのですが。部屋に誰かがいるのは楽しいという意味でも 圧迫という意味でも精神への刺激、テンションという概念をもたらすようです。 それで、もともと(週末に行けないかもしれないし)今日の紅白戦を見に 行くつもりだったんですけど、行けなかったので、昨日、「HYPER REMIX HYPER」様で 午前に髪を切った永田さん(しかも午前はトップOFFだから自主練習!)を 見たという一節にひきずられて日立台まで歩いたのは、結果的に正解だったのです。 遠景からは、いつかの小野伸二さんを彷彿とさせた短髪、ばっさりと切った髪の 下でわずかにこぼれた笑顔、誰に似ているかと思えば―伊藤智仁さんにそっくりでした。 今まで気づかなかったのかと自分へ呆れるぐらい、ふわふわぼのぼのしている。 新井素子「ひとめあなたに」は、中学生の時に読んで、ものすごい衝撃を 受けた作品です。彼女がこれを書いたのは20歳の時なんですから。認知療法でも、 心が病んだ時は人間関係を整理というか理想的に修復するチャンスだと言われます。 エマージェンシーで、どうしても会いたい人は誰か―それを正視すること。 一緒にいて楽しい人は誰か、なんとなく負担になっているのは誰か、全てを 冷静に見つめ直すことで、よりよい自分と周囲のあり方を創っていくのです。
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