Land of Riches


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 2003年09月08日(月)   絶望の定義 

12.「希望」とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の
観念から生ずる不確かな喜びである。
13.「恐怖」とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の
観念から生ずる不確かな悲しみである。
14.「安堵」とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる喜びである。
15.「絶望」とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる悲しみである。

(スピノザ『エチカ』第三部 感情の起源および本性について)

私が納豆よりも煙草の臭いよりも何よりも嫌いなものは、自分に対する干渉です。
これは、私を構成するどんな些細な要素に対するものであっても、ダメなようです。

私自身の、現在の話し言葉―言葉遣いは、どうやら私自身が演じているペルソナの
それにすっかり征服されてしまっているようですが、それは指摘されなければ
分からないことではありますけれど、私自身そしてペルソナの両者を侵害されたと
“私”は感じるらしく…ブチ切れました。「こんな私は本当の私じゃない」って、
便利な言い訳、逃げ言葉ですけど、でも、今の私にとっては紛れもない真理なのです。

開き直りと受け取られても仕方ないですね。でも、どれだけ良い方向に考えようとしても
どう足掻いても、現在の自分―今の生活は肯定できないんです。暇さえあれば、
“今とは違う”暮らしをしている、自分、を想像している私がいます、実際に。
全てを変えるために、住まいを探し、仕事を探そう…とする意思ではなく、
欲望しかないのが悲しいのですけれど。なんて力を失ったのでしょう、私は。

いや、もともとそんなものはないのかもしれません。認めたくはないけれど。
“仕事”で自分を磨く、という、普通、の生き方を投げ捨ててまで積み重ねてきた
言葉たち―平たく言えば語彙・文章表現も、大切な人たった一人でさえ支えられないのです。
バカじゃないですか、本当。どんな言葉を紡ぎ出せば、傷つけず、助けになれるのか、
悩んで、考えて、苦しんでも、答えが出ないのです。出せないのです。自信がないのです。

小さな記事が、どれだけ笑顔と言っても、私には信じられないのです。曇ったままの瞳。

今週末、国体へ行けることになったら(初日働いているので、とにかく弱気なことしか
言えないのです)J-STEPへ行くことになります。私が前に行ったのは一度きり、
まだ工事中の2月、U-20合宿、香港へ行く前の。練習の中身はほとんど思い出せませんが、
あの時、練習を見ていた自分の気持ちは思い出せるんです。気持ちというか…不安。

あの頃は生きていること自体が不安定で、自分がスタンドに座ってU-20を見ていること、
呼吸を無意識に繰り返していること、私という意識がこの肉体に宿っていること、
全てが“当たり前”では片づけられず、信じられなくて、焦点はすぐ目の前の彼にすら
定まらず、清水の日が傾いた空はぐるぐる回っていました。気持ち悪かったです。

そんな鬱は、今でもJ-VILLAGEで私へ訪れたりもしますが、それでも、あの頃とは
程度が違います。相馬さんが1年で2回もレッドカードもらうように、時は流れているのです。
(非常に良くないたとえなのは百も承知ですが、書かずにいられなくて…)

あの頃、縋って、縋って、縋り倒していた対象が、今では…今では。

もうずっと探しているんですよ。“私”って何か。18歳の頃から。でも、いまだに
日常生活へ集中できるような答えは見つかりません。ただ、忙しさに逃げてみたり、
萌えに逃げてみたり、疲労でごまかしてみたり、そんな毎日です。無駄な…そう、無駄な。

自分の感情を定義しようと四苦八苦していて、自分が好きな対象もそうしているから、
私は似たものを好きになったような錯覚に溺れているのですよ、きっと。


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