Land of Riches
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きっと、怒ってますね。 共にバックラインを形成する今野さんには、まめに声かけて位置を修正して、 それでも望むように仕切れなかったとご不満なのです。なぜならラインの統率者ですから。 …私がさんざん言われたのは右アウトサイドの人なのですが、それはきっと言葉足らずで伝わらない…。 清水の時も、あれだけ名駅上空から念(かなり黒い)を飛ばしたら、 一応、願った通りに“彼”と一緒にいてくれた“あなた”ではありますが。
こんな悪い夢、早く覚めてしまえばいいのにね。 人生、毎日前へ進めるわけじゃない、後ろへ下がる日もあるかもしれない、 意味のない日もあるかもしれない―いや、本当はそういう日の方が多いのかも。
悪友M嬢が相模原やらランドマークタワーやら行ってくれたお陰で、どっぷりと過去につかりました。 あの頃、私は自分を不幸だと感じていた―今思えば、不幸だと感じられるファクターが、 いやライフ(生活)があるだけ、今よりずっとまともだったのです。 「恋を汚すものは、逸楽でもなければ、自然でもなく、官能でもない。 それは社会が我々に覚えさせる打算と、経験から生まれる熟慮反省とである」 コンスタン『アドルフ』より。打算と経験は…人を不感症にし日々を貧しくしますよ。 たとえば、今の私を支えている唯一の軸=想いを寄せる相手は、仮のものであり、まやかしであり、 いつか必ず崩れ去ると、既に分かっています。現時点で、実際の“彼”が私が思い描く理想と 遠くかけ離れたパーソンなのも承知ですし、もう目をつぶっている部分が多々ある段階まできてます。 スポーツ選手へ本気の恋をするには、10年の時間が邪魔なのです。10年前はできたんです。
おそらく、そうやって何事に対しても鈍くなって、最後は死すら恐れなくなるのでしょう。 一日に脳細胞が万単位で死滅していく―それも本能が用意した素晴らしき機能かもしれません。 人生は、なかなか覚めない悪夢かもしれないって、最近、ちょっと思ってます。 覚めたら…覚めたら、何が待っているのだろう。
この世の中には、自分と、自分以外の二種類の人間がいます。 自分以外の人間は「敵」と「味方」に分類できます。 本来はどちらでもない「赤の他人」がいるはずですけど、味方よりは敵になる可能性が高いので、敵です。 一度「敵」と認識した人を「味方」と見なすのは至難の技です。逆は簡単ですが。 「味方」が「敵」だと分かった時の衝撃は、「敵」が単に増えた時の何十倍にもなります。 周り、敵ばっかりです。味方という仮面をかぶった敵ばっかり。一番手強い敵。 私だって負けじと透明な刃を―という名を持つ言葉を振りかざして対抗してますが、 胸には何本ものダガーが刺さって、これまた見えない血がダラダラと流れています。 言葉で魂の活力を奪うのは、凶器で命を失わせるよりも罪が重い気がしますよ。
今の私に必要なのは、私へ反撃してくる人じゃなくて、自ら血を流しながらそれを白刃取りしてくれる人です。 そんな人いるのか?―昔いたんです。それは間違っていると教えて…諭してくれる人が。 私はあの頃のあの人と同じ歳になりました。でも、あの人みたいな大人になれません。 否定することと、異なる意見を提示することは違います。大人がすべきは、後者です。
「友を持とうとするならば、その友のために戦争をすることをも避けてはならぬ。 そして戦争をするためには、人の敵となることが“できなくては”ならぬ」 ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』より。私は…できますよ。歪んでいると言われても。
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午前3時―家族にお前はおかしいと検査データ(なんか文字やら数字やら)を突きつけられ、 追い掛け回される…私が必死になって逃げている夢を見て、目が覚めました。怖い…怖すぎる…。 とりあえずクスリとして再生したBGVのヴェルディ戦、前半、読みを褒められてますよ(泣) 絶対にこの試合の後半をひきずっているんですって―と書きながら、戒めとして最後に一つ。 (これも前に書いたことあるなぁ…多分)
>人間の観察や判断を歪める多くの先入見が人間の眼を曇らせているからである。 >ベーコンはこのような先入見を idola (幻影・偏見)と呼んで四つに分類している。 >第一に「種族のイドラ」がある。それは、人間性そのものに根差す人類に普遍的な偏見である。 >感覚から生じる錯覚と、自説を否定するような事例を無視することの二つが最も重要なものである。 >第二に「洞窟のイドラ」がある。それは洞窟内の人間の視野が狭められているように、 >個人の性癖・好悪・境遇・体験など、個人的立場にとらわれることによって生じる偏見である。 >第三に「市場のイドラ」がある。それは、多くの人々が集まる市場での、他人の言葉や噂による知識と、 >直接に経験して得た知識とを混同することによって生じる偏見である。 >第四に「劇場のイドラ」がある。それは、舞台上の芝居や手品をつい信じてしまうように、 >伝統的な学説の権威を無批判に信じることから生じる偏見である。
今日の一言:「どつぼはまってるかも…」
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