橋本裕の日記
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2007年07月09日(月) クラス崩壊と腰痛(3)

  ある日、私は働きたいと言っているI君に、「働くあてはあるのか」と訊いて見た。そうするとI君は中学生の同級生が定時制高校に通いながら働いている。その同じ職場に行きたいという。働いてお金をため、「あるもの」を買いたいのだという。その「あるもの」というのが、「バイク」であることは、やがてわかった。

 I君は中学時代の友人のように働いて、バイクを買いたかったのだ。ところが、父親にはバイクを買うために学校をやめたいとは言えない。そんなことを許してくれるはずがないことを知っていたからだ。私は「バイク」の件は伏せて、父親に彼を外で働かせてはどうかと進言した。

 父親はこれに反対だった。学校にも行けないI君がきびしい労働が続けられるはずはない。それに、学校はアルバイトを禁止しているので、そのために学校を退学しなければならない。たとえ留年してもよいから、退学だけはさせたくないというのが父親の気持らしかった。

 そこで私は指導部に事情を話し、登校拒否中のI君にアルバイトを認めてもらうことにした。そして父親を再び説得した。さいわい夏休みが迫っていたので、まずはその間だけでも試験的に彼を働かせてみてはどうかと持ちかけた。父親はこれにしぶしぶ同意した。こうして、I君は学校に籍を置いたまま、近所の工場で倉庫係として働くようになった。

 この日を境に、I君は見違えるようになった。毎朝、家族より早く起きて朝食を食べ、作業着に着替えて仕事場に出かけて行った。部屋に閉じこもり、夜も昼もわからないような自堕落な生活が嘘のようだと、母親がうれしそうに語ってくれる。私は夕方、彼が工場から帰ってくるころをめがけて、様子を見に行った。

 公務員の父親が先に帰っていて、ビールを飲んでいる。そこに作業着姿のI君が帰ってくる。倉庫で朝早くから夕方まで、単調な荷造りばかりである。しかし、I君は血色がよくなり、見るからに生き生きとしている。「順調ですね」と父親に言うと、「まだまだ、この先続くかどうか」と渋い顔をしていた。しかし、I君は無事1ケ月間、働き続けた。I君はそれからもがんばって働き続けた。

 新学期が始まってしばらくした頃、父親がようやく「退学」に同意した。ある夕方、退学届けを渡しに彼の家を訪れると、工場から帰ってきたI君が「先生、みろよ」と通帳を見せてくれた。父親はビールを飲みながら、「どうせ、それでバイクでも買うんだろう」と苦笑いしていた。以前と比べると、親子の関係がずいぶんよくなっていた。

 退学届けを渡しながら、私はI君に定時制高校か通信制高校に通うことを進めた。父親もこれに賛成だったが、彼は大学検定試験を受ける道を選んだ。そして3年後にはすべての単位をとり、地元の短期大学に合格した。I君はみごとに勉強と仕事を自分の意志で両立させたのだった。そのとき、父親から、こんな手紙が届いた。

<今本当の幸福とは何かと深く考えています。家族の健康、子供の成長、自分の出世、財産等が原点ではないのかと考えておりました。しかし、心の中で他人をおもいやり、自分自身を律することではないのか。又、自分も生き、他人を生かし共生することなのかと。私も50半ばになり生きてきた目的、成果を見出したいと思うようになりました。人生の目的とはなにか、本当の幸福とは何かと自問しながら生きていきたいと考えています>

 この手紙を読んで、私は涙が出るほどうれしかった。I君の登校拒否は父親の人生観まで変えたのだ。ちなみに私の腰痛はI君が退学した後も続いた。それからも多くの問題生徒を抱え、ストレスフルな毎日が続いたからだ。

 しかし、とにかく私は転勤して最初のつらい1年間を乗り切ることができた。40人いた生徒のうち、I君をふくめて3人が退学したが、どうにか残りの生徒を進級させることができた。これはとてもうれしかった。しかもこのつらい体験によって、私自身ずいぶん成長することができた。とくに私の「教育観」や「人生観」が深くなった。

(今日の一首)

 つらきことあまたありけりしかれども
 うれしきこともちらほらとあり


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