橋本裕の日記
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私は若い頃からこの世界は物質からできていると考えていた。いわゆる「唯物論者」だった。ところがここに一つ困ったことがあった。それは私たちの「こころ」の存在である。「こころ」とは何であろうか。それはたしかに存在する。しかしあきらかに「物質」ではない。だから、物質だけが存在するというわけではない。
もちろん、「こころは存在するが、それは私たちの脳神経という物質によって生み出されたものだ。だから、意識も結局は物理化学現象の一種に過ぎない」と主張することはできる。しかし、私はやがてこの考え方では明らかに解決できない問題が存在することに気づいた。
それは「なぜこころが物質から生まれるのか」という問題である。唯物論的にみれば、私の意識現象は私の脳神経に生じた複雑な物理化学的な現象である。しかし、なぜこの物理化学現象がこころを生み出し、私はなぜ夕日をこのように「赤い」と感じるのか。これが大いなる謎だった。そしていろいろと頭を悩ましノイローゼにまでなった。こ謎は現在も解けてはいない。いや、未来永劫、とけることはないだろう。
脳波を精査し、ある種の脳波の形が、私のある種の意識や感情の内容に対応していることを突き止めることはできる。また、脳に電極を差し込んだり、薬物を注入して、私の意識の内容に影響を与えることもできる。現にこころの病気を治療するために様々な薬物が市販されている。
これらのことは、私たちの意識現象そのものが物質の運動や変化によって与えられるということを示している。脳科学者はこれは自明の事実と考え、神経細胞のどのような物理化学的現象が私たちの意識現象に対応しているか、さまざまな実験を通して、これからも興味深い発見をするに違いない。
にも関わらず、この先どれだけ脳科学が発展し、物理化学や生物学が発展しても、人間の知性ではどうしてもわからない謎が残る。それは「なぜこの豊かな味わいをもったこころが生まれるのか」という問題である。私たちは「こころ」のなかで「世界」を何ゆえにまさにこのような「クオリア」として受け容れるのか。
私たちの脳は、ある波長の光をとらえてこれを「赤い」と感じる。またある波形の音を捉えて、これを「ピアノのドの音」だと判断する。しかし、しかしなぜ私がそれを「赤い」と感じるのか、その「赤い」というクオリア(質感)がどこから生み出されるのか。これはどうしてもわからない。
私たちにとって大切なのは、まさにこの人生のクオリアなのである。この物質世界を豊かな色彩と質感をもつ存在として味わうことができるのはなぜか。なぜ、どこからこの豊かなクオリアは生まれてくるのだろう。なぜ、虹はこのように美しいのか。そよ風はこのように快く、青い空に浮かぶ白雲はなぜこうもこころを浮き立たせるのか。
世界はまさにわれわれの心をとおして、まさにこのようなものとして与えられている。私にわかったことは、このいささか詩的で哲学的な問題に私たちは未来永劫だれも答えることはできないということである。私にできることはただこの事実の受け入れ、この豊かなクオリアが生み出される現場に立ち会っているといういのちの不思議に、ただ驚嘆することだけである。
(参考サイト・文献)
「クオリア」(ウイキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
「哲学的な何か、あと科学とか」(飲茶著、二見書房)
(今日の一首) 猛暑来て蛙3匹水を浴び 人は働く汗をかきつつ
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