橋本裕の日記
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これは自伝「幼年時代」にも書いたことだが、幼い頃の不思議体験のひとつとしていつも思い出すのは、ラジオから流れ出してくる音のことである。
<不思議と言えばラジオで、あの黒い紙で出来たスピーカーからどうして人間の声やピアノの音が自由自在に出てくるのか、さっぱりわかりません。後ろから覗いてみると、奇妙な形をしたガラス管が何本も並んでいて、オレンジ色の光を放っています。私にはその様子がどんなおとぎ話よりも神秘的で幻想的に思えました>(幼年時代、6.ひとり遊び)
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/younen.htm
当時は真空管ラジオで、後ろのカバーをはずすと、真空管が何本かオレンジ色の光を出していた。その光景が何とも幻想的だった。しかし、それ以上に私を驚かせたのは、黒い紙でできたスピーカである。なんとその紙から、人の声や小鳥のさえずり、風の音、水のせせらぎ、そしてピアノやバイオリンなど、オーケストラの音楽まで華麗に流れ出してくる。黒い紙の振動がどうしてバイオリンの音色まで作り出すのか、こうしたことが私には不思議でならなかった。
スピーカーの原理は簡単である。ただ電気磁石を使って黒い紙を振動させているだけだ。しかし、その物理的な振動が私たちの耳には美しい音色として響いてくる。これは何としたことだろう。子供心にこのことが不思議でならなかった。そこで大人に聞いてみるのだが、だれもこれを説明できない。
説明できないどころか、「へんなことに疑問を持つ子どもがいるなあ」という反応しかしめしてくれない。大人がこれを不思議に思わないのが、私にはさらに不思議だった。大人ばかりではなく、まわりの子どもたちもこの現象をべつだん不思議と思っていないらしい。こうしたわけで、私はこの不思議体験をあまり口にしなくなったが、それでも疑問は疑問として私の胸の中に居座り続けた。
私が後年、大学や大学院で物理学を専攻した遠因はこうした幼い頃の「不思議体験」にあったのだろうと思う。「音の不思議」からはじまって、「光の不思議」や「電気の不思議」、そして「物質と生命の不思議」、「数の不思議」へとどんどんワンダーワールドは拡大し、私の疑問はふくらむ一方だった。そして今もなおワンダーワールドは私のまわりに神秘的な姿で広がっている。
ところで、スピーカーの不思議については、高校で「波の重ね合わせの原理」というのを習って、「ああこれか」とその本質が理解できたように思った。複数の波がぶつかっても、それは干渉しないでそのまま重なり合い、またわかれて、もとの波の形をそれぞれに取り戻すことができる。スピーカの上で重なっていたそれぞれの音色が、ふたたび分かれて私たちの耳に届いてくるわけだ。
ピアノやバイオリンはそれぞれ固有の「音色」を持っている。この音色を電気磁石をつかって固有の電気振動にかえるのがマイクロフォンである。マイクロフォンをオシロスコープに繋ぐと、ブラウン管の上にその「音色」を独特の「波形」として眺めることができる。音色の正体がこの固有の波形だった。
バイオリンの音色であれ、それはひとつの固有の振動数をもつ「波形」にしかすぎない。たとえ紙であれなんであれ、この「波形」が再現できれば、それは「空気の振動」として私たちの耳に届き、それを私たちの鼓膜が受け取り、脳が「バイオリン」の音色として聴き取るわけだ。このことに気づいて、私の頭の中に立ち込めていた霧が晴れた。
バイオリンやピアノの音色も、「情報」という観点から眺めるとき、しょせんそれは「空気を伝わってくる振動の波形」でしかない。そしてこの認識はさらに先に進めることができる。じつはその「波形」は「0」と「1」という2進法の数字の羅列に還元される。これが「アナログ」から「デジタル」へという情報の転換である。音だけではなく映像も同様にデジタルへと抽象化することができる。
高校教師になって、生徒に物理を教え始めたとき、私はオシロスコープを使った実験を生徒たちに見せてやった。それぞれの振動数をもつサイレンを鳴らすと、そこに規則的なサインカーブがあらわれる。これを音叉の音に変えたり、自分たちの声やピアノの音に変えたりして、ブラウン管に現れた波形の変化を観察した。
私はオシロスコープの画面に映し出された音波の独特の姿を眺めて、幼い頃から胸の中にあった疑問が氷解する快感を覚えた。そしてこの実験を教室で繰り返したものだった。「どうだ、面白いだろう」と得意だったが、生徒にとっては迷惑なことだったかも知れない。
(今日の一首)
イヤホーンを耳に当てればたちまちに あふれる音の不思議な世界
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