橋本裕の日記
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2007年02月25日(日) 女を盗む話


 20年ほど前に、仏教大学国文科に籍を置いていた頃、サマースクールで「伊勢物語」を学んだ。そのとき、ちょっと不思議な体験をした。その日はたまたま「六段」の「女を盗み出す話」を読んでいたのだが、講義の途中からにわかに空が掻き曇り、雷鳴とともに嵐のような雨が襲ってきたのだ。

 男が盗み出すのは身分の高い貴族(藤原良房)の娘である。父親は娘を入内させ、ゆくゆくは天皇の后にしようと思っている。ところが在原業平とおぼしい貴公子が、身の程知らずにもお姫様に懸想する。寝殿に忍び込み、やんごとなきお姫様とできてしまう。

 やがて姫君の父親や兄弟の知るところなり、二人の仲は無理に裂かれる。そこで男はやむにやまれず、お姫様を盗み出した。言ってみれば駆け落ちである。追っ手を逃れ、負ぶって逃げる途中、女が草の上に置かれた露を見て、「あれは何?」と男にきく。このあたりまで、原文ではこうだ。

<むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける>

 お姫様はほんとうに「露」を知らないのだろうか。まさか、それではあまりに無知すぎる。たぶん知っていて聞いたのだろう。その露の玉があまりに美しかったからだ。しかし、男は逃げるのに夢中でそれどころではない。

 やがて夜になり、おまけに雷が鳴り出し、激しい雨が降ってきた。男はあばら家を見つけて、そこにひとまず女を隠し、自分は戸口で見張りをする。ところが夜中に鬼が出てきて、女を食べてしまう。お姫様は声を出すが、雷の音にかき消されて、男の耳には届かない。

<ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり>

 クライマックスのこの部分を教室で先生が読み始めたとき、それまで明るかった外が急に暗くなった。そして雷が鳴り出し、大雨になった。まさに、テキストと同時進行である。「これは驚きましたね」と先生も苦笑い。私もとなりの女性と顔を見合わせた。彼女は「鬼が出てきそうで怖い」と肩をすくめた。演出効果抜群だった。

 こうして女は鬼に食べられ、あとかたもなくなった。夜が明けて、男ははじめて、あばら家の中に女がいないのに気づく。そして、足ずりをして泣いたがもうどうしようもない。男は女が逃げる途中に草葉の上の白玉を見て、「かれは何ぞ」と訊いたのを思い出す。そして、その時、「露だよ」と答えて、いっそ一緒に消えてしまいたかったと思う。

<やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

 白玉かなにぞと人の問ひし時
 露とこたへて消えなましものを

 これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや>

 「伊勢物語」はこの物語をこう謎解きしている。姫君はのちに文徳天皇の后になり、清和天皇の母親になった。そしてここから藤原家は栄耀栄華の道を登り始める。一方、男は東国へ落される。そして隅田川まできて、こんな歌を詠む。

 名にし負わばいざ事問はむ都鳥
 わが思う人はありやなしやと

 「伊勢物語」は大好きである。なかでも「六段」の「女を盗み出す話」は哀切である。読み返すたびに、仏教大学の教室でのひと夏の体験が、懐かしくよみがえる。

(今日の一首)

 草の露かれは何ぞと問ふ女
 愛おしきかなはかなきいのち


橋本裕 |MAILHomePage

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