橋本裕の日記
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国債は借金ではなく、投資だと書いた。その是非を明らかにするためには、経済学の基本となる「借金と貯蓄の関係」について押さえておかなければならない。簡単に言えば、この両者は双子の関係にある。
お金を余分に持っているひとがいれば、かならず足らない人がいる。収入が支出を上回る人は、その差額分のお金を貯蓄する。そして、その反対の人は借金をするわけだ。お金は決してなくならない。その量が一定だとすれば、借金と貯蓄はほぼ見合いの額になる。つまり、貯蓄のあるところ借金があり、借金があるところ貯蓄がある。
卑近な例を出せば、私たちは将来のために倹約をして銀行に預金をする。そして銀行はこれを必要な人に貸しつけるわけだ。マイホームが欲しい人はローンを組むし、あるいは借金で子供を大学に通わせる人もいる。
国民が充分な貯蓄をしていれば、それだけ借金もたくさん借りられる。借金によって企業は設備投資をしたり、個人は消費を拡大することができる。貯蓄は支出を減らすから、消費が落ち込み、国の経済を縮小させるが、それを借金をする人が埋め合わせて支出することで、国の経済は成り立つわけだ。
もし、世の中が貯蓄をする人ばかりだったらどうなるか。たとえば、国民が毎年すべて収入の5パーセントを貯蓄したとしよう。そうすると翌年は消費が95パーセントに落ち込み、その分企業は売り上げを減らす。とうぜん国民の収入も5パーセント減る。
これを十年間続けると、貯蓄の総額は最初の収入の4割強になるが、収入は58パーセントになる。国の経済規模が6割り程度に落ち込んでしまうわけだ。つまり、典型的なデフレになる。
支出を減らせば貯蓄が生まれるが、この貯蓄がすべて借金に変身して別のところで支出に化けてくれば問題はないのだが、そうでないと、つまりタンス預金などをして貯蓄が投資に結びつかない場合は、ここに必然的にデフレ圧力が生まれる。
貯蓄が経済の発展を阻害するものであることは、すでにケインズが「貨幣論」のなかで、「社会が投資をこえる貯蓄を続ける限り、我々は損失を受けるだろう」と指摘している。そしてやがて全員が餓死する状況もありうると警告している。
しかし、私たちはこの「貯蓄」の弊害を知らない。むしろ、蟻とキリギリスの例を持ち出すまでもなく、倹約は美徳であり、貯蓄に励むことは正しいことだと思っている。ところが、個人のレベルで正しいことも、社会全体の利害で考えるとそうでもないわけだ。
世の中が倹約家ばかりだとしたら、商品は売れなくなり、企業が倒産し、失業者があふれ、自殺者や餓死者が生まれる。だから、倹約家は個人の富を蓄積することで、社会の未来の富を収奪していることになる。個人の美徳は社会の悪徳であり、反対に借金をして浪費をする人は、社会経済の維持に協力しているわけだ。
現在、日本には1500兆円ほどの個人金融資産がある。いいかえればこれだけの貯蓄があるわけだ。しかし、なんとか国の経済が成り立っているのはどうしてか。だれかが途方ない借金をしているからに他ならない。もうおわかりだろうが、その借金の主は国や自治体である。
銀行の貸出残高は1997年には533兆円もあった。ところが6年後の2003年にはこれが135兆円も減少している。毎年平均して23兆円ものお金が返済され、消費生活の表舞台から消えていったわけだ。これはGDPにして4.5パーセントのマイナス効果である。
ところが、この6年間で政府は135兆円を上回る国債を発行し、この経済縮小の穴埋めをした。それによって、DGPの減少を1パーセントに抑えたわけだ。もちろん、政府の使ったお金が十分に効果的に働いたかどうか疑問だが、経済原則として貯蓄が増大するとき、だれかがこれを埋め合わせる「借金」をしなければならないのは事実である。それが政府ではなく、企業であればいいのだが、企業にその余力がないとき、政府がこれを支えることになる。
以上述べたことは、ケインズ理論の骨格であるが、今日これを認めない経済学者もいる。その実証例として、日本の経済発展をあげる人が多い。たとえば、ドラッカーは「未来への決断」のなかで、「過剰貯蓄が、不況の原因どころか、高い資本形成をもたらし、経済繁栄の決定的な要因となった」と書いている。
たしかに貯蓄が資本形勢に導く場合がある。しかしその場合でも、国民は倹約して支出を減らしていても、一方で誰かが支出して消費を支えているはずである。そうでないと、消費が落ち込み、経済活動が破壊されるからだ。
戦前、戦中の日本の場合は、政府が軍事に厖大な支出をした。そのために巨大な国債を発行した。これによって軍需産業を中心にまがりなりに経済が回転したわけだ。政府は軍事支出を可能にするために、「欲しがりません、勝つまでは」と国民に倹約を奨励し、「贅沢は国民の敵」だと思い込ませた。
敗戦で国債は紙屑になったが、戦後はこんどは国土建設に重点的に支出するために、ふたたび国民に質素倹約を求めた。国民は安い賃金で身を粉にして働き、質素倹約をして貯蓄に励んだが、その分、企業や政府がそれを拝借して支出に励んだ。これによって企業は設備投資を充実させ、政府は高速道路などのインフラを整備したわけだ。
ドラッカーが言うように、貯蓄はそれが全額投資に活用されるシステムが存在する間は、国民経済にむしろ有益に働く。しかし、過剰な貯蓄はこのシステムをしばしば機能不全におちいらせる。そしてこのシステムが崩壊したり、時代遅れになったりしたとき、国民経済に大きな重石になりかねない。現在の日本がまさにそうである。
政府の770兆円の「借金」は、国民の1500兆円の巨大な金融資産に見合っている。どこの国でも、これだけの金融資産を持っている国民はいない。しかし、この資産が形成される裏側で、巨大な国債が生まれた。国債を減らすにはどうしたらよいか。それはこの巨大な国民貯蓄をどう解消するかという問題である。
貯蓄だけあって、借金はなしという虫の良いことは個人のレベルでは可能でも、国民経済の立場では理論上のみならず実際も不可能である。逆に現在の巨大な金融資産をある程度温存し、これを積極的に活用することで打開をはかろうというのであれば、それに見合った国債の存在を認めるしかない。
そのために必要な思考のパラダイムを私は提起した。それは非常にシンプルで、ただ国債を「投資」と考えることである。ものの眺め方をマイナスからプラスへと180度転換させるわけだ。国民の合意のもとでこれを容認し、こうした新しい見地に立って、現状に即した合理的な経済政策を実施すれば、ここに新しい日本の将来が開かれるだろう。
(参考文献) 「日本を滅ぼす経済学の錯覚」 堂免信義 光文社
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