橋本裕の日記
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| 2005年05月01日(日) |
中江藤樹の「良知」に学ぶ |
先日、友人3人と湖北を旅した。近江今津、新旭町と、私にはもうすっかり馴染みになった湖北の町を訪ねた。私は自然が好きだが、自然と人間が調和して暮らしている様子を眺めるのも好きだ。なんだかとても心が和む。
今回はそのとなりの安曇川町にまで足を伸ばした。近江聖人とあがめられた中江藤樹(1608〜1648)が生まれ育ち、藤樹書院という塾を開いていたところである。藤樹のお墓に参り、藤樹記念館を訪れた。藤樹書院は明治時代に立て直されたものが残っていた。
藤樹は近江国高島郡小川村に農民の子として生まれたが、9歳のとき米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行った。翌年には藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住んだ。
15歳のときに祖父を失い、家禄を継いで100石取りの武士となる。17歳の頃、独学で「四書大全」を読み、朱子学に傾倒したが、やがて次第にその格法主義的な思想に批判的になる。そして、27歳の時、脱藩して、ふるさとの小川村へ帰った。
藤樹は居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、近郊や農民や大洲から彼を慕ったやってきた藩士を相手に、孔子や孟子の教えを説いた。37歳のときに「王陽明全書」を手にし、陽明の「致良知説」に大いに共鳴し、この説の優れていることを説いた。これによって、藤樹は陽明学の開祖といわれている。
身分制度のやかましかった江戸時代、藤樹は武士を捨てて故郷に帰った。そして母親に孝養を尽くし、近隣の人々に人の生きる道としての学問を教えた。朱子学が幕藩体制を支えるための武士中心のイデオロギーであったのに対して、藤樹は本当の学問は身分を超えて妥当する真理を教えるものでなければならないと考えた。
代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいる。とくに蕃山が有名になることで、その師である藤樹の死後における名声が高まった。藤樹の直接の門人ではないが、陽明学を信奉した大塩平八郎や、維新の志士を育てた吉田松陰はその末流である。
明治にはいると、キリスト教徒の内村鑑三が「代表的日本人」のなかで日本を代表する5人の偉人の一人として中江藤樹をとりあげ、藤樹の名声はさらに高まった。万民平等を説く藤樹の思想は先進的だが、大切なことは彼がその実践家であったことだ。
藤樹にはたくさんのエピソードがのこっている。たとえば後に医者として名を残した大野了佐は、もともと魯鈍といわれていた。藤樹は彼のために『捷径医筌』を著わし、これをテキストにして医学を教え、ついに彼を立派な医者に育てあげたという。
藤樹は「翁問答」のなかで「元来、文武は一徳であって、別々のことではない。武のともなわない文は真実の文でなく、文のともなわない武は真実の武ではない」と書いている。
<文は仁道の異名であり、武は義道の異名である。・・・根本の徳を第一につとめ学び、枝葉の芸を第二に習い、本末を兼ね備え、文武合一であるのを真実の文武というのである>
中江藤樹の思想の核心は「人間は本来善な存在であり、学問によってこの玉を磨かなければならない」という「性善説」である。彼はこれを「孟子」から受け継いである。「性悪説」の立場に立ち、権威による人民支配こそ学問の使命だと考えた朱子学は、彼の肌にはあわなかった。武士を捨てたのはこのためだろう。
中江藤樹と同時代の人のデカルトがいる。デカルトは「原罪」を教義の中心にした中世の神学を批判し、煩瑣で教条的なスコラ哲学を批判した。そしてその足場を、万人が生まれながらに持っている「良識」に求めた。そして彼はこれをもとに人間中心の思想と科学を建設した。ヨーロッパの合理思想は彼から始まり、この思想がやがてヨーロッパの市民革命を導くことになった。
中江藤樹の説く「良知」はデカルトの説く「良識」と似ている。そして幕府の権威を後ろ盾とした朱子学は、教会の権威を後ろ盾としたスコラ哲学にそっくりである。学者の独善を嫌い、「社会こそ本当の教科書だ」と考え、ラテン語ではなく口語であるフランス語で書物を著したデカルト。農民の分かる言葉で語りかけ、学問の源泉を人間の「良知」に求めた中江藤樹を、私は日本のデカルトだと思っている。
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