橋本裕の日記
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先日、NHKスペシャル「学校は変われるか? 学力No1に学ぶ」を見た。学ぶべき学力No1の学校として、日本では京都市立御所南小学校、外国ではフィンランドの学校が紹介されていた。フィンランドの教育については先月も紹介したが、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)ではダントツの一位である。とくに論理的な思考力や推理力にすぐれているという結果が出ている。
どうしてこうした好結果が得られたのか。それはフィンランド政府が始めたこの10数年来の教育改革のたまものだという。フィンランドは失業率10パーセントをこえる不況にあえいでいた。この不況から脱出するにはどうしたらいいか。そこで始まったのが、よき人材を育成するための教育改革だという。国家予算を教育に集中投資しようということになった。
小・中・高校の運営のために使う国家予算のGDPに占める割合を見てみると、フィンランドは3.5パーセントで、教師一人当たりの生徒数は14.2人になっている。同じ数値を日本と比較すると、国家予算はGDP比2.7パーセント、生徒数の比率は17.3人で、統計の上でもはっきりその差があらわれている。
もちろん、フィンランドの教育改革は、単に高額の国家予算を投資したという量的な面だけではない。これをベースに、大胆な改革を実行した。NKKスペシャルではその中味を現場に取材しながら丁寧に紹介していたが、まとめると次の三本柱だという。
�〃萃蠍△鮓従譴� ��客観的データーによる検証 ��情報公開と結果責任
つまり、カリキュラム編成や授業内容の決定権を現場に与え、その結果、どのような教育上の成果が生まれているかについては、全国一斉の統一テストなどでしっかり検証する。そしてその結果も保護者に発表し、教師達に最終責任を負わせるというやりかたである。つまり現場の教師に大幅な自由を与え、その結果についてはきっちり責任をとらせるというシステムである。
とくに重要なのは「決定権を現場に」という政府の方針だろう。フィンランドにも日本の指導要領のようなものがあるが、改革を境にこれが大胆に簡素化された。たとえば1985年の指導要領では算数・数学について10ページの記載があったが、1990年度版ではこれがわずか1ページになった。教授内容をことこまかに指示するのではなく、何をいつどのように教えるかについて、あくまで現場の教師の裁量にまかせるということである。
この結果、学校側の対応が早くなった。番組でも、保護者会の席上、「スエーデン語と英語の授業が同じ日に重なっているので、子供の負担が大きい。変えて欲しい」という母親の要望について、「11月まで様子を見て、結果が悪ければカリキュラムの変更をします」と、そこに居合わせた教師が即座に答えていた。これが日本なら、校長が教育委員会にお伺いを立て、教育委員会は科学文部省にお伺いを立てるということになり、結局、年度途中の変更は好ましくないとかなんとか、無難な回答が年度が終わったころに返ってくることになるのだろう。
もっともこのシステムは、現場の教師にとって、かなり負担が大きいことも事実である。これまでは教育委員会がだめだと言っている、文部省がだめだと言っている、ということですませられたものが、すべて自己で判断し、その結果については保護者や生徒に対して、直接に責任をとらねばならなくなるからだ。これまでのようなぬるま湯の方が楽な気もするが、もはやそのような時代ではない。日本の教育の将来を考えれば、フィンランドのような「自由と責任」を尊ぶ教育改革こそが学校を変え、教師を変えるのに必要なことだろう。
なお、「自由と責任」を尊ぶ姿勢は、生徒や保護者にも求められる。保護者会で一人の母親が、「宿題の答えが間違ったままになっている。先生はちゃんとノートをチェックしているのですか」という批判の声を上げていたが、これに対し教師は、「解答は授業中に全体に示しています。それをしっかりチェックできないのは、お子さんの自己責任です」とはっきり答えていた。
学校側がこうした明確な姿勢を打ち出せるのも、もちろん日ごろの教育実践に自信があるからだろう。フィンランド政府はすべての教師に研修を義務づけ、要望があれば大学でもう一度学ぶことも認めているという。よき教育づくりは、よき教師を育てることでもある。宿泊研修に参加した教師が、「研修を馬鹿にしていたが、これまでとはまるでちがう。お互いの議論を通して、自己啓発された。ほんとうに実りのあるものだった」と満足そうに語っていた。こうした実りのある研修が日本ではほとんど体験できないし、また教師にその余裕がないのが現状である。
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