橋本裕の日記
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2003年09月02日(火) 自由とは何か

 人間にとって、一番大切なものは何かと聞かれたら、まずは食べ物とか着物とか住居とか生存に必要なものが考えられよう。しかし人間の場合は、これでけで満足できない。「人間はパンのみで生きるものではない」からだ。

 さらなる富や地位や名誉を望むものもいるだろうし、平和や平等、愛情といったより精神的なものに価値を見出す者もいるだろう。人が何を求めて生きるか、それはその人の価値観や人生観によるので、ここから先はさまざまな生き方が考えられる。

 こうしたさまざまな生き方ができるということが、すなわち人間における自由ということであろう。だだ本能のままに生きている動物にはこの自由はない。もちろん人間の場合でも、彼が置かれている社会的条件によって、この自由は大きく制限されることがある。まったく自由が存在しないような専制的な社会や階層があったし、現在でもそうした社会がないわけではない。

 自由について、以上にのべたことは、大変常識的なことである。「自由」という言葉の意味はもう少し複雑である。いま手元にある「広辞苑」を見ると、そこには次のように書かれている。

�/瓦里泙泙任△襪海函�思うとおり。自在。(古くは勝手気ままの意味に用いた)

�∪嫻い鬚發辰堂燭�をすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件のもとで成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは、自由の増大である。この意味で自由とは、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。

ア)社会的自由。社会生活で、個人の権利が侵されないこと。歴史的に成立している重要なものに、市民的自由と政治的自由がある。前者は企業の自由、契約の自由、財産・身体の自由、思想・信仰の自由、言論・集会・結社の自由などを指し、後者は参政権その他の政治的目的のための行動の自由を意味し、両者ともそれらに対して国家権力その他の干渉がないことを意味する。

イ)意志の自由。自分の行為を自由に決定できる自発性があること。哲学史上、これを肯定する非決定論と否定する決定論との論争がある。意志が因果関係で縛られているとする決定論では道徳が無意味になり、行為の責任を問うことができないというのが、非決定論の主張である。カントは物質的現象世界では決定論を認めたが、行為の世界においては道徳成立の根拠として意志の自由の存立を認め、この問題を解決しようとした。

ウ)倫理的自由。カントにおいては、意志が感性的欲望に束縛されず、理性的な道徳命令に服することで、自立と同義。サルトルにおいては、人間は存在構造上自由であり、したがって常に未来への選択へと強いられており、それ故自由は重荷となる。

 以上、「広辞苑」からの引用であるが、自由について、大雑把に�ー�由気ままと��束縛や障害からの自由という二通りの意味があることがわかる。いずれにせよ、完全に自由な人間など存在しない。私たちはさまざまな拘束や制限、障害の中におかれて生きている。そこで大切になるのは次のことであろう。

<自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは、自由の増大である。この意味で自由とは、自然・社会の法則の認識を通じて実現される>

 私はものを考えるということは最大の自由だと思っている。パスカルがいうように「人間は弱い葦である。しかし彼はそのことを知っている」ということが大切なのだ。自由に物を考え、自由に意見を主張できること、そしてそうした自由な言論によってさまざまな政治的な問題が解決されていくこと、これが民主的な社会の理想であろう。すべての自由の根底に言論の自由がある。これを大切にしたいものだと思っている。


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