橋本裕の日記
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2003年07月27日(日) 「数学」軽視の日本社会

 書店に行くと、算数の本がたくさん並んでいる。ゆとりの教育で計算力が落ちたという論を展開する人たちが増えて、これではいけないという危機感もあるのだろうか。分数計算ができない高校生や大学生が増えてきて、実際に学校の先生も困っているようだ。

 しかし私が不思議に思うのは、これだけ「算数」や「数学」の学力低下が叫ばれ、高校までは数学の授業も重視され、大学受験でも特別扱いされ、生徒を塾に通わせたがる父兄がいるというのに、大学生になるととたんに数学の授業がなくなり、数学の影が薄くなることだ。

 現に国立大学に通う私の二人の娘も、大学では数学の授業をただだ一時間も受けていない。医学部の看護科に席を置く長女は、推薦入学だったので数学の受験勉強とは無縁だったようだが、これは例外で、看護科の入試では数学がかなり重視される。にもかかわらず、入学後はまるで数学を教えないというのはどうしたことだろう。

 数学をただ入試の選別装置として使っているとしか思えない。日本ではだれもが、入試に合格するために数学の勉強している。これは数学に限らないことかも知れないが、とくにこの傾向が数学に強いようである。こうしたことは外の先進国では考えられないことだ。日本の特異現象である。

 たとえばアメリカには約2000校の大学があるが、そのなかの4分の3にあたる1500校が数学科をもっている。これに対して、日本は600校ほどある大学のなかで、数学科を持っているのはたった60校、全体の10分の1である。日本の大学でいかに数学が冷遇されているかわかる。

 日本の大学生は大学でほとんど数学を履修しないが、西欧の大学では文化系の学生でも幅広い数学の授業を履修している。なぜかと言えば、西洋にはプラトン以来の学問の伝統があるからだ。数学とはそもそも人がまっとうに物を考えようとすれば避けて通れない論証の技術であり、人間の知性の偉大さを実感できるもっとも誇らしい教養である。

 数学はなにも数学の専門家になるために勉強するのではない。それは私たちがこの社会で自由な市民として生きていくための大切な教養である。たとえばいまはやりのマニフェストひとつとっても、そこに求められるのは論理的な整合性であり、自己矛盾を持たない体系性である。政策を立案しなければならない日本の官僚や政治家に、こうした「数学的能力」があるのかどうか非常にあやしい。

 じつのところ数学の専門的な素養がないものは一流の経済学者にも政治家にもなれない。日本で一流の経済学者や政治家が育たないのは、彼らが数学的能力に乏しいからだ。そしてここに日本の教育システムの最大の問題点があるのだが、数学「学者」も含めてこの認識はほとんど持っていない。

 最後に、アメリカの大学院で政治学を専攻している人の最近の日記を一部引用しておこう。彼がいかに日本の大学で数学軽視の教育を受けてきたか、そのことがアメリカの大学院に進学し、政治学を研究しはじめてどんなに大きな壁になっているかがわかるだろう。

<今週も、講義中に使用される数学の程度が高く、いきなり初日からチンプンカンプンになってしまった。僕の微分の知識はまったくの独学で、本当に初歩のレベルしか分かってないことを改めて痛感した。しかし、講義中隣に座ってるD君は、「なんでこんな基礎に時間をかけるんだ」とブツブツ言ってるし…。
 とりあえず、一つ一つの式の展開は分からなくても、先生が説明してることの大まかな内容だけは理解しようと思って聞いていたけど、分かったような分からないような…。ハァ。
 昼休みにD君と話してて、学部時代に微分積分を勉強したことがないことを話したらビックリされた。僕は大学受験では数学は「数�機廚世韻世辰燭掘�筑波大学時代は数学は一切取らなくてもよかったので、大学院に入るまで長い間数学とは無縁だった。その頃は、政治学の研究で数学を使うなんて思いもしなかったなー。。
 僕が筑波大学を志望した理由の1つは、「一般教養」課程がなく、専門科目に絞って勉強できることだったんだけど、今になると、そのやり方の欠点も見えてきた。アメリカの大学の学部課程では普通、どの専攻であろうと割と幅広い科目を履修しなければならない。学生には嬉しくない制度だろうけど、そういうことも必要なんだろうなー>(「大学院をミシガンで」6月23日の日記)

(参考サイト) http://www.msu.edu/~maedako/nikki/0306.html


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