橋本裕の日記
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2002年03月19日(火) 安楽な独善家

 私が「精神の安楽家」と呼んでいるものに、「安楽な懐疑家」「安楽な多元主義者」「安楽な独善家」がある。今日は「安楽な独善家」について書いてみよう。

 私たちの精神はともすると、あまり深く物事を考えずに、安易にひとつの結論にしがみつこうとする。たとえば円柱をみて、ある独善家はそれを四角だときめつける。それを別の角度から眺めたもう一人の独善家は丸だと主張する。そしてお互いに自説が正しいこと信じて疑わない。

「群盲象を撫でる」という諺があるが、これも同じような状況である。ある盲人は象の鼻を撫でて、それはホースのように長いといい、別の盲人は耳を撫でて、団扇のように平べったいといい、他の一人は脚を撫でて、丸太ん棒のようだという。いずれも象の全体像をわきまえずに、その部分を全体だと思って判断しているわけだ。

 しかし、私たちもこうした盲人を笑うことはできない。多かれ少なかれ、私たちは独善家であり、同じようなまちがいを犯して、他人を一方的に拒み、非難することがあるからだ。これに対して、懐疑家の盲人は象など存在しないというかもしれないし、多元主義者の盲人は、丸くて平べったくて丸太のような何かが象だと言うかも知れない。

 独善と懐疑はまるで反対のように考えられるが、その実、そうかけ離れたものではない。なぜなら、懐疑することに疲れた懐疑家は一夜にして独善家になることがあるし、独善家は自説が破られたとき、一気に懐疑家に変身することがあるからだ。

 つまり、懐疑と独善はコインの表裏であり、「精神の安楽主義」のそれぞれの側面に過ぎない。これに安楽な多元主義をくわえれば、おおむね、怠惰な精神の立体像が完成する。もう少し本質を言えば、○○主義者はおおむね精神の安楽家の代名詞だと考えて間違いないようである。


橋本裕 |MAILHomePage

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