橋本裕の日記
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ニュートンは光は粒子だと考えた。そうしてこの立場から、光の直進性や屈折現象、スペクトルの問題を考えた。これに対して、オランダ人のホイヘンスは光は波だと考えた。そうすると光の回折や干渉が容易に説明できる。
光は粒子か波かという論争は、19世紀にイギリスのマクスウエルが「光は電磁波である」ことを示して、一応決着がついたかにみえたが、その後20世紀になって、アインシュタインが「光量子説」を唱えて、ふたたび、再燃した。
金属に光を当てると、金属の表面から電子が飛び出してくる。これを「光電効果」と呼んでいるが、その様子を実験でくわしく調べてみると、光があたかもとびとびのエネルギーをもつ「粒子」のような振る舞いをしていることがわかる。こうした光の粒をアインシュタインは「光量子」と呼んだわけだ。
アインシュタインと言えば「相対論」が有名だが、実は彼がノーベル賞を受けたのはこの「光量子説」に対してであった。彼は26歳のとき、「特殊相対論」を発表したが、その同じ年に、この「光量子説」も発表している。両者とも、まさにこれまでの科学の定説を覆すような画期的な発見だった。
さて、このアインシュタインの論文によって、ふたたび光の粒子説が息を吹き返したわけだが、一方には光が「電磁波」であるという厳然とした「波動説」も存在するわけで、物理学者の頭は大変混乱してしまった。
光は波動であると同時に粒子でもあると主張すればいいわけだが、実はこの主張の中には矛盾が潜んでいる。「波であること」と「粒子であること」は全く違った現象だと考えられていたからだ。ところが、光は同時にこの二つの属性をもっている。
これは一見矛盾するようだが、物理学者はやがてこの矛盾止揚することに成功した。それは簡単に言えば、「光はそれを観測する方法によって、波の性質を表したり、粒子の性質を見せたりする」と考えるのである。光という実体のなかに、この二つの側面が含まれていると考えればいいことに気付いたわけだ。
たとえば、ここにある図形Aがあって、ある人はそれを○だといい、ある人はそれを□だと主張したとしよう。Aが同時に○と□であることは一見矛盾のようだが、実はこの矛盾はAが平面上の図形だと考えるから起こってくるわけで、Aを円柱という立体として捉えることで解決される。
波であり同時に粒子であるという相反する属性も、このように光を立体化してイメージすることで解決される。大学に入って量子力学を学んで、まず感動するのは、こうした「立体的な思考」のすばらしさである。考えてみれば、科学の歴史はこうした「立体的な思考」の宝庫だといえる。
さて、付け加えておくと、その後、物理学者は光だけではなく、電子やその他のすべての物質が粒子性と波動性をともに持っていることに気付いた。こうしてアインシュタインの「光量子」から始まった物質についての新たな理論は、その後半世紀ほどかかって完成され、現代の物理学者はそれを「場の量子論」と呼んでいる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日の日記について、掲示板にスビンさんから、論理的であることは、真理が多元的、多様性を持つことを排除しない」というご指摘があった。たとえば、同じ幾何学でも、ユークリッド幾何学の他に非ユークリッド幾何学が複数存在している。論理性はむしろ多様性や多元性を支えているのではないか。
スピンさんのこの説に賛成である。私の文章の舌足らずの部分を補っていただいたと思っている。私は真理というのは多元的で多様なものの統一体であると考えている。そして論理というのは、この多様性に秩序を与え、すっきりと統一する働きがある。
まさに、論理があってはじめて、多元性や多様性が秩序として存在しうるのだろう。そのもっとも分かりやすい例は数学だろうが、今日は私が大学時代に学んで感激した現代物理学から、話題を拾ってみた。
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