橋本裕の日記
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2002年02月12日(火) はじめに言葉ありき

 ヘレン・ケラーの物語は、言葉の問題を考えるとき、いつも私の頭に浮かんでくる。サリバン先生はヘレンの手を水に流しながら、手のひらに何度も、"Water!"と書いた。ヘレンはそのとき、「何かしら忘れていたものを思い出すような、何ともいえない不思議な気持になった」と自伝に書いている。

「突然私は、何かしら忘れていたものを思い出すような、あるいはよみがえってこようとする思想のおののきといった一種の神秘な自覚を感じました。この時初めて私はwaterはいま自分の片手の上を流れている不思議な冷たい物の名であることを知りました。この生きた一言が、私の魂を目覚まし、それに光と希望と喜びとを与え、私の魂を解放することになったのです」

「はじめて言葉というものを知ったのです。私をじっと押さえていた、あの目に見えない力が取り除かれ、暗い私の心の中に、光が射してくるのが分かりました」

 一つの言葉がわかるということは、同時にたくさんの言葉がわかるということだ。昨日も書いたように、たとえばミズという言葉はそれだけで意味があるわけではなく、ヒトとかイヌとか、他の多くの言葉との関係の中で、はじめて意味が生まれ、確定する。言葉にとって大切なのはこの「差異」だが、このことにヘレンは気付いた。

「あらゆる名前は、新しい考えを産み出した。家に帰ってみると、私が触れるあらゆる物体が、命をもってうちふるえているようだった」

 そうして言葉と同時に、事物が立ち現れてきた。ヘレンが感動したのは言葉に対してではなく、言葉を通してはじめて体験するこの世界のありさまに対してであった。ヘレンはこのとき初めて、自分の回りに存在する事物というものを知った。そして自分が何者であるかを知った。だからこそ、ヘレンは言葉を「光」にたとえたのだろう。

 私たちは言葉を知らなくても、健康な肉眼さえあれば色々なものが自然に見えると思っている。たとえば雨上がりの空にかかるニジは、言葉を知らなくてもあのように七色に輝いて見えると考えている。しかし、そうではない。

 私たちの目にニジがそのように美しく見えるのは、私たちが「虹」という言葉を知り、その概念やイメージを知っているからである。モノが事物として存在するためには、そこには言葉という光が存在しなければならない。そしてその言葉によって、私たちはまさにその事物に出会うのである。

<はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき。言葉ははじめに神とともに在り、万の物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに命あり、この命は人の光なりき>(ヨハネ伝福音書)

(参考サイト) 「魂の教育論」http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/kyouikuron.htm
(注)北さんの「魂の教育論」は「魂」と「心」という観点からヘレン・ケラーの言語体験を書いている。比較して読んでいただけるとありがたい。


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