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2005年02月15日(火) 祖父死去。
14日19時8分、祖父が亡くなった。79歳だった。
私はその時微熱がありながらも8時間バイト中で、 店に父から電話が掛かってきた。
「15日から大分に行くから、バイトの都合で合わせることがあったら済ませておくように」とのことだった。
その前に父から携帯に掛かってきたのだけど、 流石にバイト中なので出るわけにいかず。 でも、その時点でわかっていた。
危篤と言われてから持ち直していたけど、 持たなかったみたいだ。
人が生きる力をなくす、というのは一体どういうことなのだろう。
人間には心があるから、「死」を生物的な意味だけにはとらえきれない。 血が通わなくなって、腐敗し始める。そこにあるものになる。
…なんて表現は、人には使いたくない。 本人がどうこうよりも、残された人の中でどうとらえるかという問題になる。
そこにいるのに、もういない人。
この間の誕生日(2004年10月3日参照)に行ったお葬式が、 私が物心ついてからは初めてのお葬式だから、 人が亡くなったときの印象はあんな感じ。
お葬式は辛い。 亡くなった人に対して悲しいと思う以上に、 周りがみんな泣いているという状況が辛い。
でも、バイトから帰ると、 母はいつものように「おかえりー」と笑って、 鍋を作っていた。 至ってフツウだった。
幸か不幸か―そういったら不幸なのだろうけれど、 私は、さほどショックでは無く、 「ああ、そうなんだ」といった感じだった。
祖父とは数年に1回会うくらいで、あまり思い出が無いのだ。 前に会ったのが、2年前だったかな。
15日の昼、大分に駆けつけて、 祖父の亡骸に対面した時も、穏やかな悲しみ、という感じだった。 弟は、「もっと話しておきたかったな」と言った。
一生懸命祖父との記憶を辿る。
背が高くって、いつも帽子をかぶっていたこと。 犬を可愛がっていて、散歩をよくしていたこと。 従姉妹と弟と一緒に本屋に行って、お小遣いをくれたこと。 それから、それから…。
16日のお葬式で、祖父の人となりが話された。
「怒った顔は見たことがなくて、とても優しい人だった」 「とても気立てのいいおじいちゃんだった」
…だからなのかな、あまり記憶に無いのは。
少し離れたところに居て、 いつもにこにこして優しかったのは覚えてる。
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大人の人たちは、何度も人の死を見てきているからなのか、 免疫があるように見える。 それほど泣いてもいない。 …少なくとも、私が居た公の場では。
それとも、おじいちゃんは天寿を全うした、 もしくはもう十分に頑張ったから、 優しく見送ることができたのかな。
私が前に見た人の死は、あまりに突然で、若すぎて、 無念でならなかったから…。
本当に、悲しくて悔しくて、みんな泣いていた。 亡くなった人を思うと、涙が止まらなかった。 周りの悲しみを考えると、もっと止められなかった。
あったはずの未来を思うと…やりきれない。
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大したことは書いてないですが。
15日は、久々に会った親戚たちと喋っていた。
ばあちゃんが部屋から昔の写真を出してくれて、みんなで楽しく見ていた。 いとこ達の小さな頃の写真や、わたしの写真もあったし、 母や伯父伯母の若い頃のまで、本当にたくさん。 宝物だね。
小さな頃の私、写りがいいのは可愛かったぁ(^^
ていうかね、M家(母の実家)の血を引く女の子はみんな可愛いわ。 従姉妹達みんな美人だもん。
最年少7歳も、伯父の顔からは想像できないくらい可愛く育ってるし(笑 不幸があって集まった親戚達の中で、笑顔を振りまいて場を和ませてた。 弟に『やべぇ、子供欲しい』と言わしめた可愛らしさです。 「そーか、頑張りなー」って言っておいた。孫は任せたよ☆
これ↑を母に言ったら、 「えぇ、別の意味じゃないのぉ?最近多いじゃない、危ないやつが」と…。 こらこら、息子をそんな風に言ってやるな(苦笑
大分に行って帰ってきた、 慌ただしい2日間のお話でした。
17日16:53
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