大学でもっと勉強すればよかったと思う気持ちはいつまでも消えない(ホントにテストの前日しか勉強しなかった)。それでもなんとか4年間の成果をあげるとしたら、聖書(旧約・新約)を通して読めたことと、アメリカ文学の流れをまあまあ頑張って学んだことだろうか。
欧米の人々の考え方、生き方はキリスト教を抜いて考えられない。だから聖書の知識があるのとないのでは、文学の読み方も、絵の見方も大きく変わってくる。
最終的な何か、究極的にいえば「生きるべきか、死ぬべきか」を決めるための助けになる力を「教養」と呼ぶという。聖書を理解しているかどうかは(私のレベルではまったく役に立たないが)、ある人にとっては多分、教養なんだと思う。
社会のことが分からない、誰も教えてくれないと、いつも心の奥に不満を抱きながら生きている。「社会」という言葉ひとつ、説明できない。何を知ったら自分と自分の生きている世界を俯瞰できるのか、それさえ分かっていない。経済学部や経営学部で資本主義を学べばもう少し違ったのではないかと、文学を選んだことを後悔したこともある。しかし、経営学部出身の友人も言っていた。「ミクロ経済学とかマクロ経済学とか習ってもねえ、社会がどうやって動いているかなんて、全然分からないよ」。最近、金融業界勤務の先輩からもらったメールには「金融が分かると、世界が分かる」と嬉々とした調子で書かれていた。おそらく彼女も、私と同じもやもやとした感情を抱いていたのではなかったか。
こんな感じの難しいことを、映画『もんしぇん』を見た帰りに考えた。なぜ、考えたのだろう。生まれ変わりとか、神様とか。お金が回る社会からいちばん遠いものごとを、想起させてくれる映画だったのに。『もんしぇん』に出てくる天草の風景は美しく、恐ろしい。恐ろしいのはなぜか。死が、となりにあるからだ。映画の途中で一瞬「あ、死ぬことは怖くない」と思った瞬間があった。東中野から総武線に乗り込んだときには、もう忘れていたけれど。そういえば養老孟司が「昔は死が身近だった、みな死に慣れていた」と書いていた。
エンドロールのあいだ中、鳥肌がおさまらなかった。
『もんしぇん』公式サイト↓ http://www.cine.co.jp/monshen/
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