こんばんは。
世間ではエゾロックなるものが行われているようですね。 高校の頃に林檎ちゃんを見たいがため 友達にスペースシャワーTVを録画してもらっていたことを思い出します。
お元気ですか。 私はまだ実家に居ります。
実家というのはただでご飯が出てくるので 何もすることがなく、 従って昼寝と読書ばかりしています。
母は、 「れいちゃんはずっとこんな生活していたら 飽きて外に遊びに行きたくなるんでしょう」 と言います。 実際あまり退屈とは感じず、 ずっとこうしていたいと思ってしまうくらいで それが間違ったほうに進んでいるのかどうかということは 自分でも分かりません。
ここのところ難しい本は一休みという感じで 頭の疲れないものばかり読んでいます。
「虫眼とアニ眼」という宮崎駿と養老猛司(解剖学者)の対談 田口ランディ「もう消費すら快楽でない彼女へ」 本田勝一「アメリカ合州国」 宮台真治と香山リカ(精神科医)の対談など。
まったく統一感のない読書なのですけれど それなりに結びつくところはあって (全部小説でないせいかもしれない) 面白いなあと感じています。
養老猛司の言うことはなかなか的を得ていると個人的に思います。 確か何かの本で宮台に「駄目だ」と言われていたけど。
ニュース23に彼が出ていたとき、 「人間の体内の水は毎日半分入れ替わるんですよ、 私たちはどんどん変わっていってるんですよ」 と話していて、 「ふうんそんなものかなあ」 と単純な私は納得した覚えがあります。
この本のあとがき(?)というか、 「宮崎アニメ私論」に次のようなくだりがあります。
当たり前だが、一般に芸術では、 表現したいことが理屈ではない。 しかも芸術の方法は必ずしも言葉ではない。 ときに理屈になりやすい文学作品は楽である。 その作品について、ものがいいやすいからである。
しかし完全に理屈になるなら、文学作品を書く必要はない。 同様に、言葉や理屈になるなら、なにもアニメにする必要はない。 環境保護がいいたいなら、環境保護といえばいい。 懐かしいなら、懐かしいといえばいい。
(以下略)
彼は言葉(理屈)を添えなければ 素晴らしいと認められないなんておかしいという。 正論でしょうね。
そして私には、大変耳の痛い話でした。 レコ評を先にみてCDを買うような人だから。
何かに理屈を垂れたり 意味づけをしないと安心できないのは 悪い癖です。 でも逆に、素晴らしいものを どう素晴らしいかきちんと説明できる人も それはそれで才能なのだとも思うし。
この前「とても衝撃を受けた」と書いた 「リリィシュシュのすべて」で 女の子が「カイトになりたい」といって凧を飛ばしている場面で 涙が止まらなかったのだけれど どうしてなのかなんて全く言えないのです。 嬉し泣きだったことは確か、ということくらいしか。
話は変わりますが、中村一義君の新曲、 「新世界」を買いました。 最近急に仲良くなった女の子(といってもたまに会うだけ) からメールが入って、 「久しぶりに邦楽買ったけどほんとよかった!」 と書いてあったのでつられて。
中村君の最近のシングルは本当にど真ん中!という感じ。 評判どおりでした。
ところで彼女はメールで「元気?」と言ってくるときにいつも 大丈夫病気じゃない?へこんでない?本当に元気? というニュアンスが入っていて面白いなあと思う。
私別に鬱々している人じゃないよ。 というかとても普通の女の子で、 普通の女の子というのがどういうのかはさておき 「可愛くしてたいわ。」と オリーブを研究している健康少女なのよ。
明日明後日とまたバイト。 土曜日に前のバイトに最後の挨拶に行ったら すごく優しくされて。 どうしていつもこうやって いいところだけ共有してやっていけなくなっちゃうのだろう、と 少し悲しくなりました。
恋人同士だって、そんなにつらいこととか何から何まで 共有する必要あるのかなあ。 負の感情を出さずに 穏やかにやっていける人間関係というのは どこかに転がっていないのかしら。
手紙形式にしたら北川恵吏子だか江国香織だか 少女漫画だか、おかしな文章になってしまいましたが これはこれで笑えるからいいでしょう。
ではまた。 夏休みに一回くらい遊んでくださいね。
追伸 読もうか迷っていた吉本ばななの「虹」、 NHKの週刊ブックレビューという番組で 絶賛されていたのでやはり買おうと思います。
「癒し系」という傲慢な言葉が腹立たしい、という 高木美保(女優)が「本当に”治療される感じ、いいんだと思える感じ”」 と話していて。
ばななは高校以来ですけれど。
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