日記
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2000年12月10日(日) 弟の傷と私の涙と

1年前の冬

弟が人身事故を起こした。
バイクで、無免、2人乗り、時速100キロという最悪の
条件で、68歳のお年寄りと接触。
被害者の方は意識不明の重体でICUへ・・・・。
何日間も、生死の境を彷徨っていた。


私は、とても不謹慎なのかもしれないけれど
何より弟の事が心配だった。


被害者の人が死んでしまったらどうしよう。
弟は一生、「人を殺した」という罪を背負って
生きていかなければならない。そんなの辛すぎる。
事故は弟の責任だ。そんな事はわかってはいても。


それでも弟の事が心配だった。


私たちは幼い頃に父を亡くして、
人が死んだ時の家族の悲しみ、大切な人を亡くした
残された者の痛みは良くわかっている。(と、私は思ってる)


しかし、事故で家族を失った者の悲しみ、憎しみは
私たちにわかるものではない。
「殺意の無い、殺人」
きっと、加害者である弟を一生恨み続けるだろう。
それだけのことを、したのだから。決して許される事ではない。
それでも・・・・・


そんなものを弟に背負わせるなんて私には耐えられなかった。
生きて、欲しかった。何より弟の為に。


私が・・・正しいとは思わないけれど
それが私の本心だったのです。


とても醜い汚い考え方だけれど私は、
68歳の老人の残りの人生と、18歳の弟の残りの人生の
重さを量って・・・比較して・・・・・
人の人生に重さの違いなんて無く、
命の重さは誰もが同じだと、理屈ではわかっていても
やりきれなかったのです。
綺麗事なんて何の意味も持たない。


私は、弟の苦しみを思うと涙が出ました。
彼が、もしかしたらこれから背負っていかなければ
ならないかもしれないとてつもなく重いものの重さを思って、
泣きました。
自分の事では泣けないのに。
私はどんなに辛くても人前で涙を流す事は無くて、
小さい頃からずっとそうやって生きてきたので
大人になるにつれて、例え一人の時でも、どんなに泣きたい
時でも涙が出てこなくなって、
滅多に泣けなくなってしまっていました。
たまに、壊れてしまうと泣いたりしますが。
そんなことも最近は殆どなくなっていたので。


被害者の方はその後奇跡的に意識を取り戻し、
本当に奇跡的に回復して、順調に退院され、
その後はリハビリに通われています。
奇跡的に、ほとんど後遺症も残らず・・・・
年齢の割には、驚くほど元気で体力のある方だったそうです。
もし、頭か腰を強く打っていたら、一生ベッドから
起き上がることは出来なかったでしょう。
私は、神なんか信じてもいないくせに
神に感謝しました。


最初は、治療費、入院費、慰謝料で、何千万かかるかわからないと
言う話だったのだけれど、結果的には「何百万」という単位で
済むことになっていったので、
私は大学をやめて働こうかと思ったのだけれど
その必要はなくなったので今でも大学に通っている。
「弟のために、真理子の人生まで狂わせてしまうわけにはいかない」
と、母が言った。
私は別に弟のために大学をやめるのはかまわなかったが、
後々、自分の人生の責任を弟のせいにして
弟を責めるなんて事はしたくなかったから、
私は今の私に出来る事をしよう!と思い、
結局大学に通う事にした。
それが、私に出来る唯一の親孝行のような気もした。


さて、うちの弟はほんとにバカでどーしようもない人間なので、
12月中はさすがに、自分のした事の罪の深さに震え、
苦しんでいたのだけれど・・・・・・
やがて被害者の方の意識が戻り、「失明しているかもしれない」
と言われていたのにしていなかった事がわかった時点くらいには、
もう完璧にいつもの弟に戻って、遊びほうけていたのでした。
ああ・・・・・立ち直り、早すぎ。
3月にはまたまた悪さをして警察のお世話に・・・・・
(両親が留守だった為、私が引き取りにいった)
あれだけの事をしておいて、罪の意識を忘れる早さには本当に
呆れるよ。なんてお気楽なんだ。


例え彼がどんな罪を犯しても、うちの両親はとっくの昔に
彼を見捨てているけれど、私だけは彼の味方でいようと思う。
本当にどーしようもない弟だけれど、
それでも私は愛してる。多分。
彼の心に、深い深い傷が残らなくって本当に良かったです。


yuri |MAIL

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