| 2026年07月04日(土) |
Review of exam |
【規格外氏のポストより】
文は人なり、という言葉がある。文章には書き手の経験・性格・教養などが全てそのまま表れる、といった意味。
要するに読む人が読めば、文章を書いている人間の「通ってきた道」が透けて見える。
私(規格外)のポストはすべて、自身の課題と、それを乗り越える過程で手に入れたパラダイム(認識の枠組み)、思考、ノウハウ、技術などを言語化したものといえる。
血と汗と涙と引き換えに積み上げてきたコンテンツだから、一行一行に魂が入っている。
それゆえ、いつも書いているように、一つ一つのポストについて、尋ねられればそれこそ何時間でも語り続けられる。
それは、紛れもなく私自身が歩んできた経験に基づくものだから。
私は説得力とは、技巧の産物ではなく、体験の蓄積とその言語化から生まれると考えている。
だからこそ断言するが、リスクを引き受けず(=大した経験もせず)、何も考えずにAI丸投げで「いい感じの文章」を量産したところで、誰の心も動かせない。
読み手は文章の巧拙を見ているわけではない。行間を通して感じられる、「書き手が支払ってきた代償」の大きさに引き込まれる。
支払われた代償がゼロの文章は、見た目がどれほど整っていようとも、どこまでも軽い。
むしろ中途半端に技巧が凝らされているほど、より一層、軽く感じられる。
興味深いのは、AI時代が訪れて「人間の中身」の価値が下がるどころか、むしろ剥き出しになりつつあるところ。
表現技術が民主化され、万人に行き渡った瞬間、差がつく場所は表現の手前、つまり表現者がこれまでに何を経験し、何を考え、何に血を流してきたかに移行した。
AIは増幅器であって、発電機ではない。無から有は生み出せないし、ゼロはいくら増幅させたところでゼロのまま。
だから私はAI全盛の時代にこそ、真面目に生きてきた人間が報われると考えている。
積み上げた体験という「元手」を持つ人間がAIを学び、習熟したとき、本当の意味でブーストがかかる。
逆に元手のない人間ほどAIに依存し、依存するほど空っぽの中身が拡張されていく。
問われているのは、AIの使い方ではない。AIに増幅させるに足る人生を、生きてきたかどうかだろう。
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