reservoir を聞くと、コンドミニアムの近くの走った貯水池を思い出す..
まさにエピソード記憶。
2014年01月25日(土) 英検1級 面接に気を取られ手が回らなかった・・・・
這い上がるしかない。
待っていろ若かり日の私。
利子つけて返してやる。
■陳腐な言い回しかもしれませんが、
親孝行に端を発する、 上に記したようなサイクルは、
あたかも、
「幸せの永久増幅機関」
と名づけたいくらい、
うまく回り始めると、 心に安定と平穏をもたらしてくれるもの。
■しかし、哀しいかな、
「永久増幅機関」
とは書きましたが、現実は残酷で、
本当のところをいうと、決して
「永久」
ではありえません。
■いうまでもなく、この幸福感は、
父なのか、母なのか、あるいは私なのか、 誰が一番先かは分かりませんが、
いつの日か、一人づつ、順番に、 会食の場から欠けてしまう、
そんな日が必ず来るという、
「哀しみを内在させた幸福感」
なのです。
■だから、
今、両親がいくら元気だからといっても 毎回、
「これが最後の会話になるかもしれない」
という思いで接するわけですし、
父や母と一緒にいるときには、
一瞬一瞬、気を入れて話を聞き、 そして、話をしようと心がけています。
■10代、20代の頃は永遠に一緒にいられる と思っていましたが、
(だから、面倒だとか、鬱陶しいとか 思っていたわけですが)
今は、きっと、みんな口には出さずとも、
「ある種の緊張感を伴う幸福感」
「次の瞬間には失われるかもしれない、 恐怖感を伴った、喜びや楽しさ」
を心の中に感じつつ、 お互いがお互いに接しているのでしょう。
■考えてみれば、
親との関係性のみならず、 人生そのものが、
たとえ今、 いっときの幸せを感じていたとしても、
その幸福感の中に同種の不安や哀しみが 内包されているわけであり、
そう考えると、 以前のメルマガでも書いたことがありますが、
「人生の本質は『哀』の一字に収まり、極まる」
のではないかと思われます。
■だから決して、
「手放しの幸福」
などはありえず、
それゆえ、今のこの一瞬を、大切に慈しみ、 丁寧に、深く、味わいながら、
生きてゆく必要があると思っているのです。
プルーストの
「本当の発見の旅とは、
新しい風景を探すことではなく、 新しい物の見方を得ることだ」
という言葉を思い出します。
■わざわざ遠くまで旅行しなくても、 一銭のカネもかけなくても、
居ながらにして絶景に巡り会える、 そんなことが頻繁にあるのです。
こうした瞬間が訪れるたび(=ほぼ毎日)、 とてつもない、至福の喜びを感じます。
■知っている人は知っている。
知らない人は永遠に知るよしもない、この喜び。
そんな
「書くことの喜び (=未だ見たことのない心象風景を見る喜び)」
をお伝えしようと、
「毎日、日記を書いたらいいですよ、 ブログを書いたらいいですよ」
とお伝えしているのですが、 これがなかなか、、、ね。
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