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07年の大晦日の今日、槍平にて雪煙雪崩で逝ってしまった故市川啓二君の最後の報告文章を読み返す。
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ダウラギリ登山を終わって 市川 啓二
平成18年の1月でした。 「忘年会でダウラギリに行こう、ということになった。一緒にどうで?」とジョインの富永さんから誘いがありました。以前に「8000m峰なら行ってもいい。」と公言していました。しかし、まさか、徳島からチームを出せるとは、正直、夢にも思っていませんでした。 すでに参加の意志を表明していた人が数名いたようです。
一も二もなく「行く。」と言ってしまってから、「さてどうしたものか。」と悩んでしまいました。 ダウラギリという山に関して、私の知っていた情報は、8000m峰で最後に登られた山(解禁されていなかったシシャパンマを除く)、8000m峰では難しいほうから数えて5番目の山(私の個人的な考えです。順にk2、カンチ、マカルー、ナンガ、そしてダウラと思っていました。)、ラインホルト・メスナーが 3回目の挑戦でサミットした山、といったものでした。 登るのに簡単ではない山という印象だったのです。 しかも、仕事の事情や家族の必要など、解決しなければならない出来事が山積みでした。 しかしながら、コマーシャルエクスペディションに参加するのではなく、徳島からチームを出せる、というのは大変な魅力でした。 悩んだのは、ほんの少しの間で、自分勝手な私は、結局、誰に相談することもなく、参加することを決めてしまったのでした。
こういう場を提供してくださった、鶴木さんと中村満芳さんには本当に感謝しています。
行くと決めたら、次はロープパートナー捜しです。上部では一人旅になる公算が高いとはいえ、信頼できるパートナーがいるといないとでは、登り方が大きく変わります。 まず、頭に浮かんだのは、ときおり一緒に県内で山登りを楽しんでいた木村くんでした。 当時、彼は雪山の経験がまったくありませんでしたが、その卓越した身体能力は眼を見張るものがあり、1年半の間、一緒に山行をともにすれば、登頂は十分可能と思ったのです。 ネパールにも何回か渡航して、トレッキング経験の豊富な彼ですが、8000m峰は勝手が違うでしょう。無理とは思いましたが、恐る恐る計画書を渡してみました。 しばらくして、「行ってみます。」との返事がもらえたときは、本当にびっくりしました。 同時に、私は、「この男をどんなことがあっても生きて日本に連れて帰る。」と強い決心をしたのでした。
こうして、始めてのダウラギリ登山隊の準備会が、平成18年2月20日に開かれ、鶴木氏、中村満芳氏、中村功氏、朝日氏、西井氏、木村氏、そして私の7人が参加の意志を明らかにして、「2007徳島ダウラギリ主峰登山隊」の発足となりました。 以後、ミーティング、準備山行などを重ねました。 平成19年5月に、2名(鶴木氏、西井氏)が、家庭の事情により、参加を取りやめましたが、残る5名で登山隊は維持され、登頂への意欲もそがれることはありませんでした。
目標とするルートは、初登ルートの北東稜です。 出版物やインターネットで、ルートの概要を調べ、必要な技術の感覚を養ったことで、テクニカルノートは、早くに頭の中に入りました。 同時に自分の技術なら、問題なく登攀できるという確信もできました。 自信のない体力面でも、十分勝負できるのではないかと思いました。 しかし、8000mの高度が自分の体にどのような影響を及ぼすのかは、まったくの未知数です。思い悩んでも、仕様がないので、できることだけはやろうと考えました。
登頂に向けて、一番の問題は、天候、次に高度馴化となります。調べるにつれ、この二つさえ順調なら、必ず登頂できる、という確信を持つようになりました。
タクティクス上、最大の山場は、やはり、登頂日です。 その日の計画は、C3を朝、出発、C4に夕方到着し、仮眠して午前0時にリスタート、午前10時に登頂、その後、夕方までに一気にC3へ下降する、というものでした。 つまり、36時間を1つの単位として行動する、という考え方です。 無謀なようかもしれませんが、逆に、このプラン以外は登頂の可能性が少ないと感じました。 ですから、練習もこの行動を頭に入れてプランを作りました。 午前3時にスタートし、長距離周回するという山行の睡眠時間は、概ね2時間以内としました。 少しずつ、36時間という行動に自信が持てるよう、練習を重ねていったのです。
関空の出発ロビーに立ったとき、あれもできていない、これもまだだった、と思わないよう、できることはしておこうと考えていました。次のチャンスは無いと思っていましたから。
ぎりぎりになってのエージェントの変更、金額の交渉、食料や装備の購入、荷物の発送など、仕事が矢継ぎ早にやってきます。6月から出発までは、ほとんど思ったような練習もできませんでした。 しかし、隊員全員で、いろんな問題を解決できたことは、非常に達成感のある仕事となりました。
そしてようやく8月16日、出発の日を迎え、ダウラギリ登山が始まったのです。(登山期間中の経緯については、隊の公式ブログサイトに詳細に述べられていますので、そちらをご覧ください。)
私がもっとも感動したのは、BC入りの日にフレンチパスからダウラギリを眺めたときでした。 その姿は本当に気高く、力強く、あくまで高く、質感あふれる山容は見るものを圧倒します。 「これから、この山を登るんだ。」という意識が沸々と湧いてでた瞬間でした。 その時は、「ダウラが俺を呼んでる。今、行くぞ。」と応えるのみで、必ず登れると確信していました。 それ以外にも、その雄々しく、荒々しい景色の数々は、私の心を底から揺さぶるものでした。 残念ながら、私のつたない写真では到底つたえることができません。
結果、頂上に登ることは叶いませんでした。 ご存知のように、何年ぶりかの大雪に、思いは簡単に打ち砕かれたのでした。 1年半かけた情熱は、わずか1週間の雪で火が消えたように、終焉を迎えました。くすぶり続ける火種を、再び焔にすることもできませんでした。
誰よりも、誰よりも、ダウラに登りたかったのは、BCで雪に降り込められ悶々としていた隊員です。
私たちにもっと強い意志があれば、もう一度、C2へ登りかえすことができたかもしれません。 韓国のキムさんや、スロバキアのドドのように、頂上稜線まで達することもできたかもしれません。 しかし私たちのダウラギリは、今回の結果がすべてなのです。
なまなましい思いは、もう少し時間が経過し、客観的な見方ができるようになれば、文章に残したいと考えています。
山登りというのは、山と人とが関わりあって、はじめて、できあがる行為です。 山と人のグレードはそれこそ千差万別ですから、その結果も同じものは絶対にありえません。 例えば、ジグソーパズルのように、最後まできっちりとピースが入ることはないのです。大きかったり、小さかったりするピースをつなげて、自分なりの完成品を作らなければならないのです。 ですから、同じ山に同じ時期に登ったとしても、決して同じものとはなりません。 適当に登り、そして無事に下りてくる、ことが、もっとも重要なのです。
適当という言葉は、悪いことのような印象を与えますが、実際は、適切に当たる、という意味で、すべてを総合的に判断し、その場で結論を出さなければいけません。つまり、本当のプロにしか許されない行為なのです。
今回、私は、また、山から多くのことを学びました。学んだことを、常に、人生にフィードバックしたいと考えていますが、それもまた、なかなかできません。 いくつになっても山から教えられることばかりです。少しでもお返しができればいいのですが、その方法すら、なかなかわかりません。
最後になりましたが、応援してくださった方々、こころよく送り出してくれた職場の皆さん、留守を守ってくれた家族には心から感謝しています。 本当にありがとうございました。
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みぞれ雪混じりの大晦日、徳島にて記す。
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