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2009年06月04日(木) |
岳すれば 岳なるものと知りながら 山に山れぬ 山と魂 |
後輩の遭難の追悼文を五月末日にようやく仕上げて、故郷にある後輩が所属していた山岳会に送った。つい先日も、産經新聞東京版に、山岳事故の異常な多発の記事が載っていたが京都でも思い当たる事があった。 今年の始め頃、友人と実に10年ぶりくらいに京都の愛宕山に行った。ここは学生時代から足慣らしと登山靴調整のためによく登った。人ごみが嫌いで、なをかつ好き勝手に行動してしまうので、中々友人と一緒には行けないし、迷惑をかける。だから、殆ど一人で行っていた。勿論土日も外す。そういう山行きが普通であった。
今度同行した友人はサラリーマンだから当然土日しか休暇はない。だから、土日に山行き の選択しか無い。 朝、烏丸丸太町で友人をひろい、清滝の麓までタクシーで行く。朝といっても、もう十時近く、終点清滝バス停に来るわ来るわ老若男女、ある人は我々と同じようにタクシーで、また自家用車で、バスで続々とやって来る。
過去、土日に山に入った記憶は無かった。 朝の静かなバス終点でコーヒーを飲みちょっとしたもの食べ、 ゆっくりと歩き始めようと言う思いは見事に砕けた。 清滝の日頃閑散として人もまばらな場所に、町中のにぎわいが出現した。百人はいたのではないか。
人ごみの中それでもコーヒーを飲みながら、各、山人の足下を観察する 。十数年は履き込んでいると思える見事なまでに手入れの行き届いた登山靴を履いている初老がいる。登山には楽なニッカ−ボッカを履いている人もいる。いづれも中高年が目立ち、若者は目立たない。 かってここを何度も登っていた頃は、普通の日の朝、人に会う事はまれであった。世間の休日がこれほどの登山人口を持っている事にびっくりした。 それにしても多すぎやしないか。 朝からバス停のトイレに並んでいる光景は、初夏の上高地のバスターミナル、スイスのツェルマットを思い起こさせる。 それでも、三々五々、人々は各自のペースで愛宕山頂上に向かって登って行った。 人気の無くなったバス停を後に我々も登り始めた。山としての難度は「へ」みたいなもので、それこそ誰にでも手軽に登れる山である。 しかしである。手軽といっても高度は800m位ある。この次期、多分上の方はアイスバーンになっているだろうと思って登って行ったら案の定、最後の石の階段(多分百数十段ある)はアイスバーンになっていた。多くの年寄った人々にとっていったん滑ったら只では済まないだろうと思っていたら、普段起きる時間帯に行動しているせいか、こちらの太ももがつりそうになってあわてた。 これは、きっと転んでけがをする人が出ると確信に近い思いを持ったが,周囲では滑る人を見かけはしたが、訓練されているのか寸での所で踏みとどまっていた。 人ごみが嫌なので少し東に路を辿って行くと立派な標識がかなり離れている地点からはっきり見えた。近くに行って驚いた。この標識は多分、高齢者のためと思われた。異常に文字と図体が大きい。はっきりくっきりこれっきりと言うくらいに書かれてあり、こんなものが北アルプスにあれば、強風で吹き飛んで跡形も無くなる代物で大きければ良いと言う物ではない。
群衆から離れた静かな場所で、茶を沸かし、三十六穀米が入った玄米お結びを食べ、シャンペンで乾杯した。行動途中だから、当然コッブ一杯分位の瓶詰めを友人と半分にしての乾杯だ。 昔はなかった地蔵谷の小径を下る事にして、残雪の雑木林を楽しみながら下って行く途中、バラバラとヘリコプターが頭上を旋回しはじめた。やがて旋回範囲が窄まり、下降し始め姿は森林の中に見えなくなった。さらに下山をつづけていると、その音はますます近く大きくなって、自分たちの進行方向から十時方向の地点にいると思えたので、二人してそこ目指して真っすぐよじ登ったら、小径に出て、その小径は少し上の森林を伐採して作ったと思われる空き地に続いており,そこにヘリが着陸していた。 見ていると4.5人のオレンジ色の服を来た隊員が担架を持って今まさに出動せんとしている。其れを見てああやっぱりと言う思いがした。あれだけいて、簡易アイゼンも用意せず、高齢者がアイスバーンの路、階段を歩いて無事なわけが無いのである。
登山口に付くまでの林道の様子も昔とは様子が変わっていた。下に降りて、途中至る所に半休(仮名)旅行社の紙の指示標があった事の意味が分かった。旅行社が中高年ににわか登山者を募り、商売しているのである。 これで、こんなに混んでいるわけが解った。 山はベテランであろうが、非日常状態になれば命に関わる事は同じで、その事態を考えて行動するのがベテランである。にわか登山者は非常事態になるとパニックになる。 携帯電話を誰でも持っているので、簡単に救助を呼べる、今回のヘリもよばれたのだろう。あんな所にヘリの発着出来る場所が確保されていると言う事から考えて、もうこういう事態は常態となっているのかもしれない。
この山は4000回登山記念の個人の石碑が建っていたりして驚く。四千回と言えば毎日登って10年ちょっと掛かる。あんぐり…。
亡くなった後輩は冬山で遭難した。 遡る数十年前、*谷川岳の某沢、岩に取っ付くまでのアプローチで、遭難してまだ未発見の三人だったかの情報を胸に、雪面を登っていた時、ピッケルの先に、シュラフかヤッケの切れ端がひっかかってきた。嫌な思いの中、ルートを誤り、遭難寸前となりそれでもなんとか稜線上に出て下山し、引きつけられたのか、遭難碑のある所へ行った。そこには拙い字で「お兄ちゃんさようなら」といつ書かれて置かれたのかはわからないが、黄ばんだ紙切れが石を重しにして置かれてあった。 あの時はじめて、「無常(梵… anitya)感」と言う物を経験し、持った。何のために生きて、何のために死ぬのか。疲れ切った体と心にこの置き紙はこたえた。考えてみればあの時以来、本格的な冬山は、少しの山スキーゲレンデスキー以外は行かなくなった。
*谷川岳 1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名で、世界のワースト記録である。ちなみにエベレストの遭難事故死は178人
→2003年の今日のたん譚
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