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2007年09月11日(火) |
そんなにいやなら燃やしてしまえ! |
少し前の新聞に、画家、*小磯良平の遺作を展示している神戸市立小磯記念美術館で「戦争画 何もならない」と題した記事があった。 小磯良平の繪を初めて見たのは、二十年くらい前、京都の朝日会館での企画展だった。 芸大の音楽学部の学生達の風景を描いたものだった。 繪を見る時には、一切の前口上、提灯記事など読まない聞かない事にして臨むことにしている。 其の時の第一印象は、国籍不明の人相をした日本人がそこに描かれていた。解りやすく言えば少女漫画に登場する主人公達のようなおよそ日本人とは思えない顏相で、それは小気味よく「うまく」描かれていた、ということだった。昭和のニューアカデミズム出現と言う風情を持っていた。 それ以上の興味はなく、一昨年だったか、長年学校の美術の先生をしていた知人が、小磯良平賞の大賞をとったと知らせて来て以来の事だった。 その小磯良平の書簡が見つかり、今月十五日に同美術館で公開するのだそうである。それは結構な事だが、どうしていろいろな後解釈をつけ、何かを匂わせて記事にするのか。 新聞には、手紙には「戦争画」のあり方を厳しく批判し苦悩する心境が記されていたとあり、まだ読んでいないので解らないが、あり方とは何なのかよくわからない。戦争の事か、それとも自分が描きたくない主題だったからなのか、それなら言うが、写真なら良いのか。 共に、戦時においての戦意高揚に使われた。それだけである。良いも悪いもない。 人は、そのとき持てるあらゆる最善の手段を使う。 その時に、優れた写真家画家を使う。当たり前の事だ。
「戦争画 何もならない」、そうだそうだと付和雷同する繪描き、鑑賞者に限って、ルーブル美術館で感動したりする。(あそこに有る殆どは、思想上の独裁者?の子キリストとその取り巻きの物語、貴族の肖像、後は小磯良平が何もならないと言って憚らない、「戦争画」なんである。) 何もならないのに、戦争を描いた画布を木枠から外し巻いて 残してあるのはなぜか。そんなに嫌な繪なら燃やしてしまえばいいものを、未練がましく残しておくのは、捨てられない何かがあったからだろう。
小磯良平は売れた繪描きである。新制作と言う団体を作った一人でもある。趣味で描いているうちは何の問題も無いが、いったん商売になる(画商とからむ)と、その全てが売買の対象になる。本人が嫌でも何でも、その「戦争画」は現実に残り、それを残された家族はいろいろな細事に巻き込まれる。
繪描きは繪を描くのであって、芸術家でも、何か意味深なものを持って描いているのでもない。繪を描いているのだ。もし何かを訴えたければ、文章の方がより手段としては有効である。評論家などは繪描きに対して、そこに何かがあるような事を書く(これを絵解きという)が、なに、描かれている繪に百万言費やしても、何が描かれているか正確にはついに書けない。 だから、売れた繪描きを何か特別な存在のごときに扱わない方が良い。昔、宮廷付き、今画商付きなだけである。(趣味で描かれているお方は高尚な芸術、試み可 好きなようにやってくれ)
*小磯良平(明治36年〜昭和63年)戦時、陸軍の委嘱で上海、ビルマなどに四度従軍、「娘子関を征く」「ビルマ独立式典図」などを描く。これはなぜか画集にも載せていない。展示も無しの摩訶不思議
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