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2003年08月28日(木) 死刑は極刑か?



 小学校に侵入して小学生をめった刺しにした男が極刑の死刑を言い渡されたと報道で聞いた。
このキチガイ男の名前を書くのもいやなので書かない。死刑で遺族は本当に満足なのだろうか? 世の中には奇特な人達がいて、死刑廃止の運動をしている人達がいる。単純な米国は、そう言うことをも参考にして多分死刑を極力出さないようにした結果、監獄に受刑者があふれかえり収容するところがなくなっている。
 
 それはさておき、今回の事件のように、まったく残された遺族の精神状態がおかしくなるような犯罪者、最後の最後まで遺族に悪かったの一言もない輩に対して、死刑は極刑たりうるだろうか。
こういうキチガイに本当の恐怖を与えるにはどうするか。方法の一つに、圧倒的に強い相手何をやっても力でかなわない、例えばK-1の選手やフルコンタクト空手家のだれかに頼んで、広い逃げられない部屋で、毎日毎日一定時間、キチガイ男を相手に本気で組み手をやってもらう。サンドバックにするのである。武道家の達人は八分打ち六分打ちの加減が出来る。
自分が密閉された空間で、素手では何をやってもかなわない、相手に容赦はないと知るときに初めて恐怖がわく。次の日も次の日も…実行する。一ヶ月ほどして「お前のやったこと、どう思っているか?」と聞いてみればいい。
 死刑などで一瞬にして殺されるのはある意味楽なのである。死に至るまで、じわじわやられる方が遙かに恐怖心がある。自尊心も叩きつぶされる。
論で負けると暴力で行けば勝てる事もある。ところが暴力には暴力しかない。「力」と置き換えてもいい。戦争も同じ事だ。
 
 しかしちょっと前の支那には、死刑なんかにさせないものすごい刑があった。簡単に死んでもらっては恨みは晴らせないからだ。時代は西太后[訂正03/10/5、これは漢の高祖劉邦の妻が、高祖亡き後寵愛していた戚婦人をやっかんで、行われた。これをきっかけに断手・断足が官刑となった時代もあった。]の頃の処刑の仕方にこんなのがある。殺しても殺したりない人間に対してこれほどの極刑はない。

すなわち、その人間の四肢(両手足)を関節途中から死なないように切り落とす。そうしておいて、ぽったん式の便所の便槽に放り込んでおく。そして、毎日便所に行くたびに、上から唾を吐きかけ、クソをする。四肢を切り落とされたその人間は、糞の海でのたうつ。ざまぁみたかとこれをやる。生きている限りやる、死なせない。これこそが究極の刑である。

死刑は究極の刑ではない。人間の最後の尊厳を認めた刑が死刑である。

参考文献:酷刑 -血と戦慄の中国刑罰史- 王永寛著/ 尾鷲卓彦編 










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